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2026年05月05日(火) 04時58分 byくし
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足利義兼は、文治五年(1189)奥州合戦の戦勝祈願のため、理真上人を開山として、この地に樺崎寺を創建しました。樺崎八幡宮は、正治元年(1199)に当地で入寂した義兼を、子の義氏が八幡神とともに合祀したことに由来します。以降、樺崎寺は足利氏の氏寺である鑁阿寺の奥の院、そして一族の廟所として崇敬を集めますが、明治初めの神仏分離令により廃寺となります。
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足利義兼は、文治五年(1189)奥州合戦の戦勝祈願のため、理真上人を開山として、この地に樺崎寺を創建しました。樺崎八幡宮は、正治元年(1199)に当地で入寂した義兼を、子の義氏が八幡神とともに合祀したことに由来します。以降、樺崎寺は足利氏の氏寺である鑁阿寺の奥の院、そして一族の廟所として崇敬を集めますが、明治初めの神仏分離令により廃寺となります。 ―――――――――― 【うずらの鳴かぬ里】 樺崎八幡宮に伝わる民話で、群馬県の邑楽町鶉の地名由来ともなっている。 ある時、足利義兼が鎌倉から足利へ帰る途中にうずらを捕らえ、その地を「鶉」と名付けたという。 その後、義兼と妻の時子はうずらの鳴き声を愛おしみ、金の籠に入れて大切に飼っていた。 ところがある夜、義兼の夢にうずらが現れ「私は立派な金の籠に飼われ、大変可愛がっていただいていますが、楽しくて歌っているわけではありません。古巣が恋しくて泣いているのです。どうかこの籠から放してください」と泣いて訴えた。 哀れに思った義兼は「お前の美しい鳴き声を聞くとまた飼いたくなってしまう、他の者に捕らえられてしまうかもしれない。これからはこの里では決して鳴いてくれるな」と言ってうずらを放してやった。 以来、樺崎ではうずらの声を聞かなくなり「うずらの鳴かぬ里」と言われるようになった。 うずらを飼っていた金の籠は樺崎八幡宮の社宝として伝えられたという。 一説によるとこの話は、義兼が鶉で召し抱えた侍女を親元に返してやった例え話とも云われている。