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2025年02月24日(月) 11時18分 byくし

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ご由緒
編集前
役行者が富士山から東北を見ると、瑞雲たなびく山が見えたのでこの飛駒の地にやって来た。さらに雲の根方に奇峰を見つけ根本山と名付けた。
天正元年(1573)良西が根本山を開山し、根本山信仰が始まる。当初は上州桐生側の登山口である梅田口が開かれ、大正院という里宮と遥拝所が置かれた。
天正十八年(1590)野州唐沢山城主佐野氏家臣の系譜を引く小野高貞が、京都聖護院の令旨をいただき、野州側の登山口でもある飛駒にも要谷山大学院(大覚院とも表記)という里宮・遥拝所を開いた。
大学院に伝わる伝承によると、かの源義経も奥州平泉に落ちて行く途中で、飛駒から根本山に登って野宿し、山神九郎王子から巻物を授けられたという。
大正院・大学院という名前からわかるように、神仏習合時代はお寺で、天台宗系の根本山別当本山修験道であったが、明治の神仏分離令で両方とも根本山神社里宮となった。
時とともに根本山信仰も廃れ、辺鄙な山村の神社ということもあり残念ながら無人社化。現在は周辺の根古屋森林公園とともに佐野市が管理している。

【小野城(要谷山城・飛駒城)跡】
天文元年(1532)の頃、佐野越後守義照が居城し、その後、足利長尾氏方の小曽根筑前守によって落城したといわれている。 山頂が城跡、当社付近が居館であった根古屋館跡であった。
根本山信仰自体が足利長尾氏・太田由良氏に滅ぼされた桐生氏残党が創始に深く関わっており、当神社創建も落城からおよそ60年後と近い時代。
破れた側の桐生氏・佐野氏の残党が宗教で再起を図ろうとしたのが垣間見れて興味深い。あるいは修験道ネットワークを利用した山岳ゲリラ戦を企図していたのかもしれない。
編集後
役行者が富士山から東北を見ると、瑞雲たなびく山が見えたのでこの飛駒の地にやって来た。さらに雲の根方に奇峰を見つけ根本山と名付けた。
天正元年(1573)天台宗の修験者 良西が根本山を開山し、根本山信仰が始まる。当初は上州桐生側の登山口である梅田口が開かれ、大正院という里宮と遥拝所が置かれた。
天正十八年(1590)野州唐沢山城主佐野氏家臣の系譜を引く小野高貞が、京都聖護院の令旨をいただき、野州側の登山口でもある飛駒にも要谷山大学院(大覚院とも表記)という里宮・遥拝所を開いた。
大学院に伝わる伝承によると、かの源義経も奥州平泉に落ちて行く途中で、飛駒から根本山に登って野宿し、山神九郎王子から巻物を授けられたという。
後に上州側は山頂西側にある「根本山神社本社」、野州側は山頂東側にある「十二山根本山神社」が信仰の中心になり、各々の里宮と見なされたようである。
神仏習合時代は、天台宗系の根本山別当本山修験道であったが、明治の神仏分離令で両方とも根本山神社里宮となった。
時とともに根本山信仰も廃れ無人社化。現在は周辺の根古屋森林公園とともに佐野市の管理となっており、すぐ前に森林公園管理棟がある。

【小野城(要谷山城・飛駒城)跡】
天文元年(1532)の頃、佐野越後守義照が居城し、その後、足利長尾氏方の小曽根筑前守によって落城したといわれている。 山頂が城跡、当社付近が居館であった根古屋館跡であった。
根本山信仰自体が足利長尾氏・太田由良氏に滅ぼされた桐生氏残党が創始に深く関わっており、当神社創建も落城からおよそ60年後と近い時代。
破れた側の桐生氏・佐野氏の残党が宗教で再起を図ろうとしたのが垣間見れて興味深い。あるいは修験道を利用した山岳戦を企図していたのかもしれない。
山中には金比羅神社と浅間神社の石祠があり、この二社に因む「ことひらの道」「せんげんの道」飛駒の池月・磨墨伝説に因む「いけづきの道」「するすみの道」の四本の登山道が張り巡らされている。
見所
編集前
根本山信仰の飛駒口側の里宮・遥拝所
編集後
根本山信仰の野州飛駒口側の拠点。
十二山根本山神社の里宮・遥拝所。