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2025年03月13日(木) 00時27分 byくし

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ご由緒
編集前
下小見集会所脇に建つ小堂宇。
かつて当地には普門寺という寺院があり、その境内社だった天満宮。
寛文七年(1667)の廃寺で、この天満宮が北およそ1kmにある真勝院に遷座。
さらに明治五年(1872)に、北およそ500mにある日光神社に遷座し、日光神社に取って代わり天満宮が主体となる。
つまりここが小見天満宮の元宮にあたる。堂内に社が残されているが、御神体は遷座時に持ち出され残っていないらしい。
※なお廃寺理由については不明だが、時代的に、藤原秀郷公墳墓にあったという東明寺と同様に、徳川家康の日光改葬時に、法要参加を拒み廃寺にされた「佐野氏所縁の四寺」の可能性あり。
明治期に日光神社から天満宮の方を主体にしたのは、それに対する意趣返しがだったのではないかと思われる。
天満宮以外に、道路の反対側に墓地が普門寺の名残として残っている。
編集後
下小見集会所脇に建つ小堂宇。
かつて当地には普門寺という寺院があり、その境内社だった天満宮。
寛文七年(1667)の廃寺で、この天満宮が北およそ1kmにある真勝院に遷座。
さらに明治五年(1872)に、北およそ500mにある日光神社に遷座し、日光神社に取って代わり天満宮が主体となる。
つまりここが小見天満宮の元宮にあたる。堂内に社が残されているが、御神体は遷座時に持ち出され残っていないらしい。
※なお廃寺理由については不明だが、時代的に、藤原秀郷公墳墓にあったという東明寺と同様に、徳川家康の日光改葬時に、法要参加を拒み廃寺にされた「佐野氏所縁の四寺」の可能性あり。
明治期に日光神社から天満宮の方を主体にしたのは、それに対する意趣返しだったのではないかと思われる。
天満宮以外に、道路の反対側に墓地が普門寺の名残として残っている。