みょうりんじ|曹洞宗|崇寿山
明林寺の編集履歴
ふりがな
みょうりんじ
ご由緒
当山、崇壽山明林寺は、室町時代の天文五年(一五三六年)に、矢場能登守繁和公が開基となり、天叟自騮大和尚を拝請して開創されました。
寺の開創を遡ること約二〇〇年、建武の中興で中心的役割を果たし、官位正四位下、左近衛中将に取り立てられた新田義貞公(源義貞)は、その後の南北朝時代には後醍醐天皇の南朝方総大将として各地に転戦し、一三三八年越前の国(現福井県)藤島で討死します。
『太平記』によると、京都で後醍醐天皇に仕えていた義貞公に公家世尊寺家の一族から嫁いで妻となったのが勾当内侍でした。勾当内侍は、義貞公討死後、比丘尼となってその菩提を弔ったとのことです。
しかし、江戸時代に講釈として『太平記』が語られると、義貞公と勾当内侍の悲恋が流布し、各地に勾当内侍の墓が作られたようです。その一つが太田市阿久津町にも存在します。
明林寺北西に椿田と称されて一角がありますが、これは椿姫と呼ばれ勾当内侍に仕えた侍女が、越前から義貞公の所領であった新田荘を目指して落ち延びてきた際に、この地で北朝方の手にかかり殺害された、との伝承に基づくものです。
この椿姫の供養碑が、野仏の如くこの地の心ある人々に依って供養を受けつつ護られてきました。その供養碑が、故有って当山境内に移設されました。『太平記』に登場する勾当内侍でさえ実在が定かでない上、風化が激しく刻字すらも確認できない侍女となると、歴史の中に霞んで史実は判明致しません。
しかし、当山近隣の人々が代々に亘って、縁もゆかりもない椿姫の非業の死を悼み、永年に亘って供養し護ってきたことは確かです。公の歴史に刻まれることのないこの事実を、歴史に遺し顕彰する意味で、祠を設け椿姫供養堂と致しました。
(境内にある椿姫供養碑の案内板より)
ご祭神/ご本尊
《本尊》延命地蔵尊菩薩
《堂宇》観音堂・椿姫供養碑
編集前:延命地蔵尊菩薩
見所
新田義貞の妻 勾当内侍の侍女 椿姫の墓(供養碑)がある。
新田秩父三十四観音霊場 第二十番新井堂の納経所。
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山号
崇寿山
創立
天文五年(1536年)
創始者/開山・開基
(開基)矢場能登守繁和 (開山)天叟自騮大和尚
巡礼
新田秩父三十四観音霊場 第二十番納経所
YouTube
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