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2025年02月16日(日) 00時53分 byくし
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弘安四年(1281)創建。 天正十六年(1588)泉応院への放火で類消。 慶長二年(1597)に石祠を祀り再建。 文政六年(1823)本殿拝殿再建。 【小倉城跡】 当神社の南に隣接する城跡。唐沢山城の支城で、1303年に佐野氏家臣の小倉刑部義成が築城したとされ、以後、小倉氏歴代の居城となる。 戦国時代末、佐野氏当主 佐野宗綱が討ち死にすると、今後の方針を巡って佐野家中は佐竹派(豊臣派)と北条派に分かれ対立する。 小倉氏は北条派に付き、1590年の小田原の役の際、小倉山城守行成が小田原北条氏に従って討死し廃城となる。 現在は堀跡、土塁跡が僅かに確認できる状態。
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弘安四年(1281)板橋六郎右衛門、山口重左衛門、高久五兵衛、太田帯刀ら四名が創建。 天正13年(1585年)元旦、足利長尾氏との須花坂の戦いで佐野氏当主の宗綱が討ち死。 佐野家中は、後継を巡り佐野房綱(天徳寺宝衍)を筆頭とする佐竹派と、家老 大祓(大貫)越中守武重を筆頭とする北条派が対立。 北条派が優勢となったため佐野房綱は出奔し中央の豊臣秀吉に仕える。 天正十六年(1588) 大祓越中守武重は、泉応院住職 梅雲和尚を憎み、正月一八日夜 火を放ち同院を焼き梅雲を殺さんとした、この泉応院への放火で当社も類消。 慶長二年(1597)に石祠を祀り再建。文政六年(1823)本殿拝殿再建。 【小倉城跡】 当神社の南に隣接する城跡。唐沢山城の支城で、1303年に佐野氏家臣の小倉刑部義成が築城したとされ、以後、小倉氏歴代の居城となる。 佐野家中が佐竹派(豊臣派)と北条派に分かれた際には小倉氏は北条派で、1590年の小田原の役で、小倉山城守行成が小田原北条氏に従って討死し廃城となる。 現在は堀跡、土塁跡が僅かに確認できる状態。
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不詳
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板橋六郎右衛門・山口重左衛門・高久五兵衛・太田帯刀