建長寺73世佛印大光禅師(応永24年1417年寂)による開山。
山号は長松山、臨済宗の寺院です。
もと本郷にあり、建長寺七十三世仏印国師を請じて開山としましたが、雪叟がこの地に移して、下田領主戸田忠次を開基大檀那として再建しました。
三河国田原の豪族だった戸田忠次は、天正18(1590)年豊臣秀吉の小田原攻めに際し、徳川氏の下で功をたて、伊豆国が家康の支配下に入ると下田五千石を封じられました。海善寺の辺りに居館を構えていましたが、慶長2(1597)年死去し、ここ泰平寺に葬られました。
跡を継いだ次子尊次は関ヶ原の戦いで功をたて五千石を加増、祖先の地三河田原に1万石をもって移封されました。戸田氏が下田を統治したのは慶長6(1601)年までの10年余でしたが、この間、町並が整えられ、殿小路、紺屋町、町店町等の町名は当時の名残を示しています。忠次の墓は田原への移封により移されましたが、第3代下田奉行、石野八兵衛が泰平寺の故地に墓碑を建てて記念しました。これを知った尊次の孫戸田山城守は元禄3(1690)年、当寺に忠次の墓(下田市指定文化財)を再建しました。
なお、幕末開港時の安政元(1854)年ロシア施設プチャーチンと和親条約の交渉にあたった応接掛川路聖謨が当寺を宿舎にしました。また、ここ泰平寺は伊豆横道三十三観音の第二十四番となっています。
住所 静岡県下田市四丁目6−7 |