りんこうじ|浄土宗|摂取山
林光寺の編集履歴
ふりがな
りんこうじ
ご由緒
この寺の宗派は浄土宗で、開山した故信上人は、甲斐の国の武将、武田信玄の子信景(勝頼の異母弟)でした。信景は、母親のたっての願いに応えて弘治3年(1557)に得度し「故信」と称して、はじめは遠州相良の林光寺に入りました。
天正2年(1574)三島に小庵を建てて念仏説法をしていました。翌3年武田勝頼が、三河で織田・徳川の連合軍に敗れ、武田家は退勢の一途を辿るはめになってしまいました。翌年になって、武田家の家臣たちは再興を願いましたが、故信上人は、仏の教えを諭し、再興への思いを留まらせました。上人に諭された家臣たちは思い直してそのまま三島に留まり、天正5年(1577)皆で茅町に本堂を建立し、林光寺と称しました。
寺は、東海88カ所の第70番の観音霊場札所であり、境内の右側に西国33カ所の観音様の石像が祀ってあります。
境内には開山・故信上人の墓をはじめ歴代上人の墓が並び、武田信玄の孫と伝えられる神沢義発公の墓があることでも知られています。また、欧州の画壇に異彩を放ち、英国王立美術協会の初外国人会員となった栗原忠二画伯の墓など著名人の墓も多くあります。
さらに、近郷を巡回し念仏講を広めた唯念上人や、徳本行者、木喰観正上人の石碑などもあります。
寺宝としては、「善導大師・法然上人縁起」、脇侍菩薩の蒔絵のある厨子に納められた安阿弥作「阿弥陀如来像」、故信上人直筆の「称名号掛軸」、法然上人の起請文の写書(共に金泥書、唯念上人直筆の掛軸等が所蔵されています。
編集前:この寺の宗派は浄土宗で、開山(かいさん)した故信(こしん)上人は、甲斐(かい)の国の武将、武田信玄の子信景(のぶかげ)(勝頼の異母弟)でした。信景は、母親のたっての願いに応(こた)えて弘治(こうじ)3年(1557)に得度(とくど)(注1)し「故信」と称して、はじめは遠州(えんしゅう)相良(さがら)の林光寺に入りました。
天正(てんしょう)2年(1574)三島に小庵(しょうあん)を建てて念仏(ねんぶつ)説法をしていました。翌3年武田勝頼が、三河で織田・徳川の連合軍に敗れ、武田家は退勢の一途を辿(たど)るはめになってしまいました。翌年になって、武田家の家臣たちは再興を願いましたが、故信上人は、仏の教えを諭(さと)し、再興への思いを留まらせました。上人に諭された家臣たちは思い直してそのまま三島に留まり、天正5年(1577)皆で茅町(かやまち)(現、加屋町)に本堂を建立(こんりゅう)し、林光寺と称しました。
寺は、東海88カ所の第70番の観音霊場札所(ふだしょ)であり、境内の右側に西国(さいごく)33カ所の観音様の石像が祀(まつ)ってあります。
境内には開山・故信上人の墓をはじめ歴代上人の墓が並び、武田信玄の孫と伝えられる神沢義発公(かんざわよしほっこう)の墓があることでも知られています。また、欧州の画壇に異彩を放ち、英国王立美術協会の初外国人会員となった栗原忠二画伯の墓など著名人の墓も多くあります。
さらに、近郷を巡回し念仏講を広めた唯念上人(ゆいねんしょうにん)や、徳本行者(とくほんぎょうじゃ)、木喰観正上人(もくじきかんしょうしょうにん)の石碑などもあります。
寺宝としては、「善導大師(ぜんどうだいし)・法然上人(ほうねんしょうにん)縁起(えんぎ)」、脇侍菩薩(わきじぼさつ)の蒔絵(まきえ)のある厨子(ずし)に納められた安阿弥(あんあみ)作「阿弥陀如来像」(あみだにょらいぞう)、故信上人直筆の「称名号(しょうみょうごう)掛軸(かけじく)」、法然上人の起請文(きしょうもん)の写書(共に金泥書(きんでいしょ)(注2))、唯念上人直筆の掛軸等が所蔵されています。
(注1) 髪を剃(そ)って仏門(ぶつもん)に入ること
(注2) 金粉をにかわでといたものを使って書かれたもの
ご祭神/ご本尊
阿弥陀仏
見所
東海88カ所の第70番の観音霊場札所
境内に西国33カ所の観音様の石像が祀ってあります
駐車場
あり
御朱印
あり
山号
摂取山