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2025年12月19日(金) 23時49分 bysoo_cyan

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ふりがな
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ほうぞうじ
ご由緒
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正覺山法蔵寺は、もとは福應寺と称し、天台宗の寺院であったが、僧・宏覚(法蔵寺第一世)の時(明応元年(1942))に転派し、仏光寺派南坊大善院の末寺となる。
 その由来は甚だ遠く然れども戦国時代、元亀二年(1571)織田信長の比叡山焼き討ちの折、元の福應寺もその災厄を免れることができず、また宝永五年(1708)七月十七日の大戸川の大洪水のため中野、芝原の両村はことごとく流出し、当地の寺院もその難をまぬがれず記録など古文書を一切失い当時以前のことは知る術がない。
 しかし、平安時代より足利時代に至るまで、比叡山延暦寺の勢力甚大にして我が地にもその末寺が数多く存在したであろうことは、今日の地名の残るのを見てもうかがい知ることができる。我が法蔵寺の前身の福應寺もその一寺であったことはあきらかで年を経るに従って天台の教旨は唯其の形体を止めて慰安を民心にあたえる事もなく徒に権力の争い状態にあり、此の時、我が親鸞聖人の絶対他力の妙旨は民心に慰安と喜びを与え、其の熱烈なる信仰は、全国を焼き尽くす様を呈し、我が祖・福應寺住職宏覚、念仏入門を大いに覚り遂に深く他力の妙趣に帰し仏光寺末寺となる。元亀二年(1571)織田信長の兵火に福應寺も難を免れ得ず、其の後は休庵状態が続き、道場も再興されたが、混乱する時世のため廃庵状態であったと言う。慶長十三年(1608)十一月二十八日よりその時の第三世浄慶により道場を開き中興される。その後、再興の苦労が続き隆盛していく中、第七世俊敬の時、宝永元年(1704)十一月二十三日寺号を許されて正覚山法蔵寺と称す。
 この様に前途に希望とやすらぎの中で隆盛していく法蔵寺も、宝永五年(1708)七月の大戸川大洪水によって全村流出の災いに遭い、寺を現在の地に移す。
 寛政二年(1790)一月八日第十二世源禎の時代に本堂を再建している。
 膳所藩の明細帳に法蔵寺道場年貢地東西六間、南北五間半と記されているが現在境内の面積は278坪である。
ご祭神/ご本尊
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阿弥陀如来
山号
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正覺山
中興の祖
Restored time
社格