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岩殿山安楽寺(吉見観音)ではいただけません
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岩殿山安楽寺(吉見観音)のお参りの記録(1回目)
投稿日:2021年05月26日(水)
参拝:2020年5月吉日
安楽寺は、埼玉県比企郡吉見町にある真言宗智山派の寺院。山号は岩殿山。本尊は聖観世音菩薩。通称は「吉見観音」。坂東三十三所観音札所11番。なお、第9番慈光寺、第10番正法寺とともに「比企三山」とも言われる。関東八十八箇所75番。東国花の寺百ヶ寺・埼玉5番。
創建は奈良時代、聖武天皇の命を受けた僧・行基が観音像を刻み岩窟に納めたのが始まり。のちに坂上田村麻呂が奥州征伐の際に戦勝祈願を行い、帰りに立ち寄り伽藍を建立した。その後平安時代末期に源頼朝の弟・源範頼が領主となり三重塔、大講堂を建立したが、のちに兵火で焼失した。江戸時代前期、杲鏡によって再興された。
当寺は、東武東上線・東松山駅の北東4kmほどの平地、丘の麓にある。東京からクルマだと、関越自動車道・東松山ICから県道271号線経由で北東に7kmほど。県道沿いにある大きな看板の場所から参道を200mほど進むと寺院入口に突き当たる。寺院近くの参道には名物の「厄除け団子」を売る店が数軒ある。境内はさほど広くはなくて、階段を上がった山門や寺務所のある下の段と、観音堂や三重塔がある上の段がある。全体的には草花がとても綺麗に整えられている印象。
坂東三十三所観音11番札所ということで参拝することに。参拝時は週末の午後で、自分以外にも5組以上の家族連れが参拝に来ていた。
創建は奈良時代、聖武天皇の命を受けた僧・行基が観音像を刻み岩窟に納めたのが始まり。のちに坂上田村麻呂が奥州征伐の際に戦勝祈願を行い、帰りに立ち寄り伽藍を建立した。その後平安時代末期に源頼朝の弟・源範頼が領主となり三重塔、大講堂を建立したが、のちに兵火で焼失した。江戸時代前期、杲鏡によって再興された。
当寺は、東武東上線・東松山駅の北東4kmほどの平地、丘の麓にある。東京からクルマだと、関越自動車道・東松山ICから県道271号線経由で北東に7kmほど。県道沿いにある大きな看板の場所から参道を200mほど進むと寺院入口に突き当たる。寺院近くの参道には名物の「厄除け団子」を売る店が数軒ある。境内はさほど広くはなくて、階段を上がった山門や寺務所のある下の段と、観音堂や三重塔がある上の段がある。全体的には草花がとても綺麗に整えられている印象。
坂東三十三所観音11番札所ということで参拝することに。参拝時は週末の午後で、自分以外にも5組以上の家族連れが参拝に来ていた。
境内の南端にある入口の<仁王門>。三間一戸の八脚門。
仁王門をくぐると、正面の高い場所に本堂が見える。
仁王門をくぐった所からの境内全景。参道の先に<本堂>、その右側に<三重塔>が見える。
さすが東国花の寺百ヶ寺に登録されているだけあって、境内の草木が整っていて美しい。
さすが東国花の寺百ヶ寺に登録されているだけあって、境内の草木が整っていて美しい。
参道進んで左手にある<水屋>。
階段下から<本堂>を望む。両サイドの植栽が整っているので絵になる。
本堂正面。江戸時代前期の1661年に秀慶法印によって再建された。様式は禅宗様に和様を交えた典型的な五間堂の平面を持つ密教本堂。
本堂内部の左上にある、左甚五郎作の「野荒らしの虎」。この虎が夜な夜な堂を抜け出し、田畑を荒らしたという言い伝えがある。
本堂の左側に、江戸時代初期の寛永年間(1624年~1645年)に杲鏡法印によって建立された<三重塔>。高さ24.3mの方三間の塔。
三重塔の前に立つ<太子堂>。
本堂裏にある<鐘楼>。
鐘楼の奥の屋根付きの場所に安置されている<八起地蔵尊>。
境内の南側に建つ<六地蔵堂>。
本堂の下の段にある、露座の<吉見大仏>(阿弥陀如来像)。左側の仏像は<六拾六部供養佛>。
水屋の奥に建つ<薬師堂>。
薬師堂の隣にある<慰霊塔>とその左側に立つ<行基像>。
境内西側にある<庫裡・納経所>。御朱印はこちら。
すてき
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惣一郎1269投稿
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