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はちまんじんじゃ

八幡神社の御由緒・歴史
埼玉県 金子駅

ご祭神《主》品陀和気命
《合》倉稲魂命
創建時代文和3年(1354)
創始者武田一族・増岡重義
ご由緒

文和3年(1354)武田一族で増岡重義と云える者が、豊前国(大分県)の宇佐八幡宮の分霊を当武蔵金子の郷、谷貫村逢谷に勧請したものと伝承される。
当時南北朝時代、入間川殿と云われ関東管領の足利基氏が入間川館に居住し当地領を支配していた。武田氏は甲州に住んだ源氏の子孫で、山梨県北巨摩郡神山村大字武田(現・韮崎市)には、武田氏の遺跡勝頼の菩提寺があり、増岡家の家紋は、韮崎市周辺に使用されている。武田系四つ目菱の紋が元祖と推定される。
武田氏は源義光が甲斐の国司となり、武田信義が源頼朝に仕え守護職となった。その信義の息女が武蔵七党中随一と云われ、当金子が生んだ金子十郎家忠の弟、金子伊豆守近徳の妻になっている。金子氏系図の中に、金子家長が武田信綱に仕え、その子正助が武田信虎、武田信玄に仕えていた。

谷貫村(現・上、下谷ケ貫)はその昔一村にして、徳川時代慶長14年(1609)に大久保源三郎忠知、大久保甚右衛門長重の知行となり、延宝2年(1674)には大久保山城守長重が鳥居を奉献したことが記録されている。
その後上分(現・上谷ヶ貫)は延享4年(1747)に田安領(八代将軍吉宗の三男 田安宗武)に、下分(現・下谷ケ貫)は続いて大久保氏の所領であったと伝えられ、当時の検地帳等で明らかにされている。
社殿は慶長年間、中山雅楽輔信也が心願を以て寄進すと云う。後、延宝4年(1676)に焼失し、後年再建されたと云われ当時を偲ぶ。当社宝物の懸佛(寛永14年1637)が現存しているが、火災に遇ったと思われる跡がある。
当社には入間市指定文化財の獅子舞があり、10月5日(現在は10月第一日曜日)菩提寺西光院より出発し、巷中の安泰と五穀の豊穣を祈念し鎮守八幡神社に奉納されるものであります。

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