りゅうせんじ|高野山真言宗
龍泉寺のお参りの記録一覧
春にお参りをした際に写真を撮ってなかった龍泉寺様へ向かいました。
龍泉寺様は真言宗の御寺様で、御本尊は薬師如来をお祀りされています。
この辺りには悪さをする龍が住んでいました。
595年に里人が困っていると聞いた蘇我馬子が龍泉寺様を創建し龍を仏法の力で追い払います。
しかし、龍が立ち去ると水が枯れ、里は衰退していきます。
823年に弘法大師が、この地を訪れ加持祈祷をすると龍が舞い戻り、それにより水も池を満たすほどに戻ったそうです。
大阪でも屈指の古刹です。
いつお参りしても静かで時間がユッタリと流れている感覚になります(´▽`)
大阪府泉北・南河内の寺院巡りの3寺目は、2寺目の和泉市から北東へ、河内長野市の先の富田林市に在る牛頭山 龍泉寺です。
高野山真言宗で、本尊は薬師如来。
こちらの仁王門の金剛力士像は府指定文化財で、所蔵の聖徳太子立像も府指定文化財です。
この時期は1年で最も日が短いですし、大阪府内の移動に時間が掛かるため、計3ヶ寺と少な目ですが、こちらが今回の寺院巡りの最後となります。(3ヶ寺+博物館)
伝説によれば、この地にあった池に龍が棲み、人々に害を与えていた。勅命を受けた蘇我馬子が修法を行うと龍は飛び去って行った。そして594年に蘇我馬子が聖徳太子と伴に寺を建立した。しかしその後、池と近辺の水が枯れてしまい寺は衰退。823年に空海がこの地を訪れ、祈祷すると雨が降り始め、龍が現れた。夜が明けると池に水が湛えられ、池の中に3つの島ができ、空海はこれらの島に聖天、弁才天、叱天を祀り、牛頭天王を寺の鎮守としたという。
828年に淳和天皇は勅使を派遣し堂塔を再建。
南北朝時代の1332年に楠木正成が嶽山に嶽山城(龍泉寺城)を築城したため戦乱に巻き込まれ仁王門以外の伽藍を焼失、また、戦国時代の1460~63年の嶽山城の戦いの争乱にも遭い、立ち直りの機会を逸した。江戸時代になり白木陣屋の石川氏代々の崇敬を受けて復興し現在に至るとの事です。
みかん畑の中を抜けるオレンジラインという道を上がって行くとコーナーの所に駐車場がありましたので停めさせて頂きました。直ぐ参道で入山受付がありましたがご不在の様で、料金箱に入山料(300円)を入れて先へ行くと仁王門、鎌倉時代中期の建立で重文です。焼失を免れた唯一の遺構。両脇に阿形・吽形の金剛力士像。高さ約3.6m、1275年の制作で府指定文化財。力みなぎる迫力のある造形です。ただ正面側にはアクリル板が付けられていて、光が反射してよく観えないのは残念な所。(風雨から像を守るためなので仕方ありませんが。) 仁王門をくぐると正面に本堂、右側に鐘楼、左前方に伝・尊性法親王の墓です。
本堂は閉まっていて覗き窓が1つあり、そこから堂内を覗くと灯りが無く暗いですが、段々と目が慣れてきて辛うじて中央の厨子に薬師三尊、左側に不動明王、右側に弘法大師、左の脇間に十二神将が見えました。寺の再建は江戸時代ですからお堂も含めて江戸時代以降の作になると思います。本堂の右側には行者堂、中を覗きましたが何年も使っていない様子の祭壇でした。本堂の左側には聖天堂、扉が閉まっていて中の様子はわからずでした。その奥に国指定名勝の龍泉寺庭園、確かに池の中に島が3つあって、それぞれに社が建てられていました。
御朱印を頂こうと駄目元で入山受付で呼鈴を押してみると奥の方から返事があり、ご住職の奥様?がいらっしゃいましたので御朱印をお願いすると、本日は書き手が不在で書置きで良いのならありますとの事で書置きの御朱印を頂き、駐車場に戻りました。
予定の寺院を巡ったので帰路に着きました。帰宅後に地図見ると、龍泉寺は河内長野市の(国宝の如意輪観音像がある)観心寺まで僅か5kmの所にあり、観心寺にもう一度行きたいと思っていたので残念でした。それと、龍泉寺が所蔵の聖徳太子立像の拝観可否等についてお聞きするのを漏らしてしまった事も残念でした。
こちらの寺院も先の施福寺と同様に紅葉が終わっていたので、もう少し早い時期に再度お邪魔したいです。
御朱印(書置き)
参道(右側手前に入山受付)
仁王門(重文)
正面はアクリル板に反射して撮ってもわからない
横から阿形
横から吽形
鐘楼
伝・尊性法親王の墓
本堂
覗き窓から堂内を覗くと辛うじて薬師三尊、不動明王、弘法大師、十二神将が見えます
行者堂
聖天堂
龍泉寺庭園(国指定名勝)
聖天
弁財天
叱天
595年推古天皇の勅願により蘇我馬子が創建した。
仁王門は鎌倉時代の建築で重文指定されている。
本堂
本堂
本堂
本堂
仁王門
仁王門
仁王門
聖天堂
行者堂
龍王井戸
龍王井戸
弁天堂
弁天堂
弁天堂
(河内飛鳥古寺11番)
かつて、この寺の境内にある池には悪龍が棲んでいたと伝えられていました。
龍泉寺は594年に蘇我馬子が勅命を受けて建立したとされますが、しばらくののち、悪龍の報復により境内の池と麓の水脈が枯れてしまったと伝えられています。
823年に空海がこの地を訪れたと伝えられ、祈祷によって雨水を得て、境内の池には水が湛えられ、この時池の中に3つの小島ができ、空海はこの島に小さな社を建て、聖天、弁才天、叱天を祀り、牛頭天王を鎮守としたといいます。
828年、淳和天皇により寺は再建され、勅願寺として龍泉寺医王院の寺号を賜った。東西両塔が建てられ、大小25の塔頭が立ち並ぶ大寺院だったとのことです。
南北朝時代になると、楠木正成の南北朝の争乱ではこの寺も巻き込まれ、仁王門を除き、多くの宝物とともに焼失してしまいました。その後再建され、江戸時代には地元白木藩主の寄進を受け度々の修理を経ましたが、往時のように戻せずにいます。
境内は静かで、ゆっくりお参りできました。が、庭園などは、文化的にも関わらず、荒れていて少し残念でした。
参道を進むと現れる仁王門は、府下最古ということで、感慨深かったです。
御朱印(河内飛鳥古寺11番)
参道
仁王門
金剛力士像(阿形)
金剛力士像(吽形)
仁王門について
鐘楼
阿弥陀堂と尊性法親王墓所
尊性法親王墓所について
大日如来堂(本堂)
聖天堂
行者堂
縁起
龍泉寺庭園
龍泉寺庭園について
境内よりの眺め
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