こんだはちまんぐう
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楽しみ方誉田八幡宮のお参りの記録(1回目)
投稿日:2022年04月23日(土) 13時08分22秒
参拝:2022年4月吉日
誉田八幡宮(こんだ八幡宮)
~世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」に隣接する唯一神社~
主祭神 応神天皇
仲哀天皇
神功皇后
社格等 旧府社
創建 欽明天皇20年(559年)
札所等
河内飛鳥古社寺霊場客番
河内飛鳥古社寺霊場
客番 住吉大社
客番 誉田八幡宮
例祭 9月15日
誉田御廟山古墳(応神天皇恵我藻伏崗陵)
の南に隣接して鎮座されます。
御由緒
誉田八幡宮は、応神天皇を主祭神とし、古くから応神陵の近くにあって、御陵祭祀を司ってきました。毎年9月の大祭には神輿が、境内にある太鼓橋を渡って御陵の後円部頂上にあった御堂までお渡りして、盛大な祭礼が続けられてきました。 応神天皇陵と誉田宮のゆかりの深さを物語る神事として知られています。応神天皇の諱(いみな)は、誉田別尊(ほんだわけのみこと)と呼ばれ、現在の羽曳野市誉田にゆかりがあるとされています。 天皇が幼少の頃に居住されていたところであり、この地の誉田真若王の娘、仲津姫を皇后にされたと古記に伝えています。 応神天皇は、皇室系図である「帝記」や宮廷物語である「旧辞」あるいは「古事記」・「百済記」などによって4世紀後半に実在した人であると考えられています。 応神天皇の諱(いみな)は、誉田別尊(ほんだわけのみこと)と呼ばれ、現在の羽曳野市誉田にゆかりがあるとされています。 天皇が幼少の頃に居住されていたところであり、この地の誉田真若王の娘、仲津姫を皇后にされたと古記に伝えています。 応神天皇は、皇室系図である「帝記」や宮廷物語である「旧辞」あるいは「古事記」・「百済記」などによって4世紀後半に実在した人であると考えられています。 大和川、石川の流れる河内地方は、4世紀後半には日本と朝鮮半島と関係の緊張が高まるにつれて、瀬戸内交通の重要性が加わり、一層開発が進んだと考えられます。この機に有力氏族らに支えられた応神天皇は、河内地方を支配して、ここに新王朝を築かれたと思われます。 秦の始皇帝陵などと共に世界でも屈指の大帝王墓-応神陵・仁徳陵-をはじめ、倭の五王時代の天皇陵はほとんどが、この河内、和泉地方につくられています。 応神天皇の崩御に際して御陵がこの誉田の地に築かれたのは、このように天皇ゆかりの地であったことと、4・5世紀代におけるこの地方が、重要な位置を占めていた地理的環境によるものであると考えられます。 また、応神天皇の頃は、大陸、半島からいろいろな文物が導入されて来ました。 中でも当宮に伝わる、応神天皇陵陪塚丸山古墳出土の馬具(金銅製透彫鞍金具)に象徴されるように、当時の金工、木工、革工などの秀れた工芸技術は、後世日本文化の基礎を築くものであったと云えるでしょう。 さて、応神天皇陵と誉田八幡宮のゆかりについては、「誉田宗廟縁起」によると、欽明天皇の勅願によって社殿が建立されたと記すように、かなり古くからのことであったと考えられます。 とくに、この誉田宮をはじめとして、月の岡、日の岡古墳のある若宮八幡宮(福岡県)、各地の大型前方後円墳と神社の縁起や、その関係はさらに古くからのことのようで、今後解明されねばならない問題を秘めているようです。
恵比須社
神馬
姫侍稲荷社
南大門
菅原道真公 御座石
式内 當宗社
国宝:神輿
国宝の神輿は源頼朝の寄進
放生橋
誉田林古戦場跡
縁起によると 欽明天皇の命令で応神天皇陵の前に誉田宗廟(こんだそうびょう)の神殿を建立したことがはじまりで、後冷泉(ごれいぜい)天皇の永承6年(1051)に社殿を現在の場所に移したとされています。
平安末期から鎌倉時代にかけて歴代天皇や将軍に守られて、社殿や伽藍などが整備されました。やがて八幡信仰が盛んになるにつれて、源氏を名乗る武士の信仰を集めました。
鎌倉時代には、源氏の氏神である八幡神を祀る社として信仰され、1196年(建久7年)には、源頼朝が社殿、伽藍を修復しました。
しかし、戦国時代になると再三の兵火に見舞われ、社殿や伽藍は焼失しました。現在の本殿や拝殿は、豊臣氏によって再建されたものと言われています。また護国寺も再建されましたが、明治初めの廃仏毀釈により取り壊され、唯一南大門だけが当時を偲しのぶ建物として残っています。
その他、八幡宮には源頼朝寄進の「塵地螺鈿金銅装神輿(ちりじらでんこんどうそうしんよ)」(国宝)や丸山古墳出土の「金銅装透彫鞍金具(こんどうそうすかしぼりくらかなぐ)」(国宝)など貴重なものが数多く収められています。
2019年(令和元年)7月6日、応神天皇陵古墳・仁徳天皇陵古墳をはじめとする49基の墳墓群「百舌鳥・古市古墳群」が世界文化遺産に登録されました。
~・~・~・~
なにわ馬のはなし
ある晩のこと、一人の男が孫の誕生を祝っておとずれた娘の嫁ぎ先からの帰り道、たまたま通りかかった応神陵のかたわらで、馬に乗った人に出会った。月明かりに照らされたその人の馬をみると、何ともすばらしいすがたかたちをした赤い馬であった。自分の乗っている馬と比べるとはるかに足も速く、男は自分にもこんな馬が欲しいものだと願った。するとその赤い馬に乗った人は男の願いを察してか、お互いの馬を取りかえてもよいと言う。男は大喜びで赤い馬に乗って家に帰ると、大切な馬をうまやにつなぎ、まぐさを与えて床についたのであった。 さて次の日の朝のこと、男が昨晩手に入れた赤馬のすがたを、あらためて確かめようとうまやに行ってみると、どうしたことか、そこにはくだんの駿馬にかわって土でつくった馬が立っていた。不審に思った男が昨夜馬を交換した応神陵へ行くと、陵に立つ土の馬の間に、赤い馬と取りかえたはずの自分の馬が立っていたのだった。 奈良時代の歴史書である日本書紀に、応神天皇の六代後の雄略天皇の頃の話として伝えられている、応神陵にまつわる不思議な物語です。
他に中国の民話でこのような話の類話を読んだ覚えもあります。向こうには埴輪はありませんので、陶器の馬だったり人形だったりします。
第15代天皇である応神天皇は、神功皇后(臺與)の息子であり、第26代天皇である継体天皇の5代前の祖父に当たります。この応神天皇も、邪馬台国(越前)に居たことを裏付ける記述があります。 古事記によれば応神天皇の御代(270~312年)に百済から韓鍛冶(からかぬち)卓素が来朝したとあり、鉄加工の渡来人たちを招聘したことになっています。この時代、近畿地方は鉄文化の後進国であり、鉄加工品の出土はほとんどありません。それに対して邪馬台国(越前)は、三世紀から五世紀において、日本最大の鉄加工品の産地になっています。
卑弥呼・臺與(神功皇后)・ 応神天皇(神功皇后の息子) と捉えれば納得します。
十五年秋八月壬戌朔丁卯、百濟王遣阿直伎、貢良馬二匹。卽養於輕坂上厩、因以、以阿直岐令掌飼、故號其養馬之處曰厩坂也。阿直岐、亦能讀經典、卽太子菟道稚郎子師焉。於是天皇問阿直岐曰「如勝汝博士、亦有耶。」對曰「有王仁者、是秀也。」時遣上毛野君祖荒田別・巫別於百濟、仍徵王仁也。其阿直岐者、阿直岐史之始祖也。
~・~・~・~
伊勢神宮の「外宮」を参拝された秋篠宮ご夫妻は翌22日、奈良県の神武天皇陵や京都府の明治天皇陵などを参拝されました。
公式ではなくプライベートでのお参りとのことだそうです。
宮内庁職員の方が、「御陵は天皇の体、神社は神様の精神をお祀りされる。」
また、誉田八幡宮神職さまより、「中国の騎馬乗馬を日本に広められたのが応神天皇ということで特別な神馬です。」
が、心に響きました。
応神天皇御陵
(誉田御廟山古墳)
八幡信仰
東高野街道
大阪府羽曳野市誉田3丁目2-8
~世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」に隣接する唯一神社~
主祭神 応神天皇
仲哀天皇
神功皇后
社格等 旧府社
創建 欽明天皇20年(559年)
札所等
河内飛鳥古社寺霊場客番
河内飛鳥古社寺霊場
客番 住吉大社
客番 誉田八幡宮
例祭 9月15日
誉田御廟山古墳(応神天皇恵我藻伏崗陵)
の南に隣接して鎮座されます。
御由緒
誉田八幡宮は、応神天皇を主祭神とし、古くから応神陵の近くにあって、御陵祭祀を司ってきました。毎年9月の大祭には神輿が、境内にある太鼓橋を渡って御陵の後円部頂上にあった御堂までお渡りして、盛大な祭礼が続けられてきました。 応神天皇陵と誉田宮のゆかりの深さを物語る神事として知られています。応神天皇の諱(いみな)は、誉田別尊(ほんだわけのみこと)と呼ばれ、現在の羽曳野市誉田にゆかりがあるとされています。 天皇が幼少の頃に居住されていたところであり、この地の誉田真若王の娘、仲津姫を皇后にされたと古記に伝えています。 応神天皇は、皇室系図である「帝記」や宮廷物語である「旧辞」あるいは「古事記」・「百済記」などによって4世紀後半に実在した人であると考えられています。 応神天皇の諱(いみな)は、誉田別尊(ほんだわけのみこと)と呼ばれ、現在の羽曳野市誉田にゆかりがあるとされています。 天皇が幼少の頃に居住されていたところであり、この地の誉田真若王の娘、仲津姫を皇后にされたと古記に伝えています。 応神天皇は、皇室系図である「帝記」や宮廷物語である「旧辞」あるいは「古事記」・「百済記」などによって4世紀後半に実在した人であると考えられています。 大和川、石川の流れる河内地方は、4世紀後半には日本と朝鮮半島と関係の緊張が高まるにつれて、瀬戸内交通の重要性が加わり、一層開発が進んだと考えられます。この機に有力氏族らに支えられた応神天皇は、河内地方を支配して、ここに新王朝を築かれたと思われます。 秦の始皇帝陵などと共に世界でも屈指の大帝王墓-応神陵・仁徳陵-をはじめ、倭の五王時代の天皇陵はほとんどが、この河内、和泉地方につくられています。 応神天皇の崩御に際して御陵がこの誉田の地に築かれたのは、このように天皇ゆかりの地であったことと、4・5世紀代におけるこの地方が、重要な位置を占めていた地理的環境によるものであると考えられます。 また、応神天皇の頃は、大陸、半島からいろいろな文物が導入されて来ました。 中でも当宮に伝わる、応神天皇陵陪塚丸山古墳出土の馬具(金銅製透彫鞍金具)に象徴されるように、当時の金工、木工、革工などの秀れた工芸技術は、後世日本文化の基礎を築くものであったと云えるでしょう。 さて、応神天皇陵と誉田八幡宮のゆかりについては、「誉田宗廟縁起」によると、欽明天皇の勅願によって社殿が建立されたと記すように、かなり古くからのことであったと考えられます。 とくに、この誉田宮をはじめとして、月の岡、日の岡古墳のある若宮八幡宮(福岡県)、各地の大型前方後円墳と神社の縁起や、その関係はさらに古くからのことのようで、今後解明されねばならない問題を秘めているようです。
恵比須社
神馬
姫侍稲荷社
南大門
菅原道真公 御座石
式内 當宗社
国宝:神輿
国宝の神輿は源頼朝の寄進
放生橋
誉田林古戦場跡
縁起によると 欽明天皇の命令で応神天皇陵の前に誉田宗廟(こんだそうびょう)の神殿を建立したことがはじまりで、後冷泉(ごれいぜい)天皇の永承6年(1051)に社殿を現在の場所に移したとされています。
平安末期から鎌倉時代にかけて歴代天皇や将軍に守られて、社殿や伽藍などが整備されました。やがて八幡信仰が盛んになるにつれて、源氏を名乗る武士の信仰を集めました。
鎌倉時代には、源氏の氏神である八幡神を祀る社として信仰され、1196年(建久7年)には、源頼朝が社殿、伽藍を修復しました。
しかし、戦国時代になると再三の兵火に見舞われ、社殿や伽藍は焼失しました。現在の本殿や拝殿は、豊臣氏によって再建されたものと言われています。また護国寺も再建されましたが、明治初めの廃仏毀釈により取り壊され、唯一南大門だけが当時を偲しのぶ建物として残っています。
その他、八幡宮には源頼朝寄進の「塵地螺鈿金銅装神輿(ちりじらでんこんどうそうしんよ)」(国宝)や丸山古墳出土の「金銅装透彫鞍金具(こんどうそうすかしぼりくらかなぐ)」(国宝)など貴重なものが数多く収められています。
2019年(令和元年)7月6日、応神天皇陵古墳・仁徳天皇陵古墳をはじめとする49基の墳墓群「百舌鳥・古市古墳群」が世界文化遺産に登録されました。
~・~・~・~
なにわ馬のはなし
ある晩のこと、一人の男が孫の誕生を祝っておとずれた娘の嫁ぎ先からの帰り道、たまたま通りかかった応神陵のかたわらで、馬に乗った人に出会った。月明かりに照らされたその人の馬をみると、何ともすばらしいすがたかたちをした赤い馬であった。自分の乗っている馬と比べるとはるかに足も速く、男は自分にもこんな馬が欲しいものだと願った。するとその赤い馬に乗った人は男の願いを察してか、お互いの馬を取りかえてもよいと言う。男は大喜びで赤い馬に乗って家に帰ると、大切な馬をうまやにつなぎ、まぐさを与えて床についたのであった。 さて次の日の朝のこと、男が昨晩手に入れた赤馬のすがたを、あらためて確かめようとうまやに行ってみると、どうしたことか、そこにはくだんの駿馬にかわって土でつくった馬が立っていた。不審に思った男が昨夜馬を交換した応神陵へ行くと、陵に立つ土の馬の間に、赤い馬と取りかえたはずの自分の馬が立っていたのだった。 奈良時代の歴史書である日本書紀に、応神天皇の六代後の雄略天皇の頃の話として伝えられている、応神陵にまつわる不思議な物語です。
他に中国の民話でこのような話の類話を読んだ覚えもあります。向こうには埴輪はありませんので、陶器の馬だったり人形だったりします。
第15代天皇である応神天皇は、神功皇后(臺與)の息子であり、第26代天皇である継体天皇の5代前の祖父に当たります。この応神天皇も、邪馬台国(越前)に居たことを裏付ける記述があります。 古事記によれば応神天皇の御代(270~312年)に百済から韓鍛冶(からかぬち)卓素が来朝したとあり、鉄加工の渡来人たちを招聘したことになっています。この時代、近畿地方は鉄文化の後進国であり、鉄加工品の出土はほとんどありません。それに対して邪馬台国(越前)は、三世紀から五世紀において、日本最大の鉄加工品の産地になっています。
卑弥呼・臺與(神功皇后)・ 応神天皇(神功皇后の息子) と捉えれば納得します。
十五年秋八月壬戌朔丁卯、百濟王遣阿直伎、貢良馬二匹。卽養於輕坂上厩、因以、以阿直岐令掌飼、故號其養馬之處曰厩坂也。阿直岐、亦能讀經典、卽太子菟道稚郎子師焉。於是天皇問阿直岐曰「如勝汝博士、亦有耶。」對曰「有王仁者、是秀也。」時遣上毛野君祖荒田別・巫別於百濟、仍徵王仁也。其阿直岐者、阿直岐史之始祖也。
~・~・~・~
伊勢神宮の「外宮」を参拝された秋篠宮ご夫妻は翌22日、奈良県の神武天皇陵や京都府の明治天皇陵などを参拝されました。
公式ではなくプライベートでのお参りとのことだそうです。
宮内庁職員の方が、「御陵は天皇の体、神社は神様の精神をお祀りされる。」
また、誉田八幡宮神職さまより、「中国の騎馬乗馬を日本に広められたのが応神天皇ということで特別な神馬です。」
が、心に響きました。
応神天皇御陵
(誉田御廟山古墳)
八幡信仰
東高野街道
大阪府羽曳野市誉田3丁目2-8





東高野街道





⛩️扁額 ♡





誉田林古戦場跡

南大門



拝殿

右近の橘

左近の桜


惠比須社


神馬

姫侍稲荷社



式内 當宗社(まさむね社)


菅原道真公 御座石
朝鮮国王奉納灯籠
こちらの奥が御本殿方向になりますが、
ものすごい気を感じました
朝鮮国王奉納灯籠
こちらの奥が御本殿方向になりますが、
ものすごい気を感じました












後円墳の入口に方丈橋






おまけ


猫ちゃんも丹精なお顔だちでした



前方後円墳




天皇陵御陵印

誉田宝殿

誉田八幡宮 御朱印








すてき
みんなのコメント(4件)
芝っち四季さん
こんばんは😁
応神天皇が御祭神の神社って多いのですかね❓先週、自分が参拝した金王八幡宮様もそうでした…無知ですみません🙇
なにわ馬の話は面白いですが人間の欲と言うものを物語にした感じですよね😅
2022年04月23日(土) 21時45分19秒
芝っちさま
今晩は。お疲れ様です。ご覧頂きありがとうございます。😌♡
ある住吉神社の宮司さまに、全国の住吉神社(2300社)をお参りしたいです!とタワケたことを申し上げたら、頑張りなさい。八幡神社だったらオススメできませんが と笑いながら仰いました。住吉神社の3倍以上で、一番多い神社さまになります。そうですね。八幡さまの主祭神は「応神天皇=誉田別尊」どんだけ~で、私は住吉さんで参ります。笑
昔話は喪黒福造さんみたいですね。笑 笠じぞうさまみたいな最後にしてーな⭐と思いました。
コメントありがとうございます。🌿🐴✴
2022年04月23日(土) 22時16分34秒
四季さん
おはようございます😁
応神天皇=八幡宮に決まってますよね(笑)
酔っ払って恥ずかしいコメントしてしまい申し訳ありません🙇
2022年04月24日(日) 05時28分58秒
芝っちさま🌿🐴
おはようございます。
めちゃ楽しい🍷だったみたいですね。よいなぁ。😋
固定概念はあかんな!と、歴史版「肉体のファンタジア」。を考えました。
素敵なコメントをありがとうございます。♡🐴✴🐴♡
2022年04月24日(日) 07時05分31秒
投稿者のプロフィール

四季550投稿
住吉大神の宮九箇処 ♡♡♡♡♡ 東村の 神の子 弦申様は 播州一の男前 おとこまえーっ♪ 播州地搗歌 阿弥陀東 ♡♡♡♡♡ お気に入りの霊場を少しずつ巡礼しています。 よろしくお願いします。...もっと読む
ホトカミ見ました! で広がるご縁
ホトカミを見てお参りされた際は、もし話す機会があれば神主さんに、「ホトカミ見てお参りしました!」とお伝えください。
神主さんも、ホトカミを通じてお参りされる方がいるんだなぁと、ホトカミ無料公式登録して、情報を発信しようという気持ちになるかもしれませんし、
「ホトカミ見ました!」きっかけで豊かな会話が生まれたら、ホトカミ運営の私たちも嬉しいです。











