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つぼいはちまんぐう

壺井八幡宮の御由緒・歴史
公式大阪府 上ノ太子駅

ご祭神◆壺井八幡宮
誉田別尊・仲哀天皇・神功皇后

◆壺井権現社
源頼信・源頼義・源義家・(源義綱・源義光・源義時)
創建時代康平7年(1064)
創始者源頼義
ご由緒

◆壺井八幡宮(主なご神徳 武運長久・厄除け・勝運・安産)
第70代後冷泉天皇の永承6年(1051)奥州で安倍頼時とその子貞任・宗任の反乱が起こった際に、源頼義公に賊を平定するようにとの勅命が下り、頼義公は陸奥守・鎮守府将軍に任ぜられた。
出陣に際し、石清水八幡宮に詣で戦勝を祈願し、12年3ヶ月の苦戦の末、康平5年(1062)に賊を平定した。
凱旋後、誓願の験ありとして、康平7年(1064年)5月15日に社殿を建立し、石清水八幡宮の御神霊を遷し祀ったのが、壺井八幡宮である。

◆正一位三社 壺井権現社(主なご神徳 武運長久・勝運・勉学・厄除け)
天仁2年(1109年)正月3日の夜、源義家公の5男左兵衛尉義時公の夢に、父祖三将軍が現れ「我等三者の霊を祭祀すべし。そうすれば王城を鎮護し、永く源家の守護神たらん。」と告げた。義時公は八幡宮西方に地を選んで社殿を造営。頼信公・頼義公・義家公三将軍の荒御霊を奉斎し、壺井宮と称し河内源氏の崇廟とした。
源氏三社(京都・六孫王神社、摂津・多田社、河内・壺井社)の一つである。

◆河内源氏の由来
寛仁4年(1020)多田満仲公の4男、源頼信公は、この地の香呂峰に館を営み居住し、河内源氏の祖となる。平忠常の乱を平定後、河内守に任ぜられる。
翌年、長子、頼義公が誕生。河内源氏の二代目となる。
長暦2年(1038)頼義公の長子・八幡太郎義家公が当地に誕生、続いて次男・加茂次郎義綱公、三男・新羅三郎義光公等が誕生する。この事により、当地は河内源氏の発祥の地となった。

◆壺井水
前九年の役の際の天喜5年(1057)源頼義公・義家公父子が賊と戦っている最中、飲料水が少なくなり、まさに敗北する状況に陥った。大将軍頼義公は、「諸軍渇きに堪えかね、まさに敗せんとす。伏して願わくば軍中に水を得さしめ給え。帰命頂礼八幡大菩薩南無通法救世大士、擁護の手垂れ給え。」と祈り、しばらく礼拝された後、自ら弓矢をもって岸壁を穿ったところ、そこより清水が湧き出し渇きはたちどころに除かれた。これにより、諸軍は大いに勢いを得ることとなった。
凱旋の際、この清水を壺に入れて持ち帰り、城域内に井戸を掘り底に壺を埋めて壺井水と称した。以後香呂峰の地名は壺井と改められた。この井戸は現在も完全に保存されている。
ところで、その湧水は現在、弓弭(ゆはず)の泉として北上川の源流となっている。

歴史
歴史[編集] 一帯は河内源氏の本拠地で、寛仁4年(1020年)に源頼信が河内国国司に任じられて以降、頼信・頼義・義家の3代にわたって当地に居住し、河内源氏と呼ばれるようになった。 康平7年(1064年)5月15日、前九年の役に勝利して凱旋した源頼義が、河内源氏の氏寺・通法寺の北側で、現在地である河内国香呂峰の私邸の東側に社殿を造営し、河内源氏の氏神である石清水八幡宮(京都府八幡市)を勧請したのが当社の始まりである。この時、地名を香呂峰から壺井と改め、壺井八幡宮を武家源氏棟梁の河内源氏の総氏神とした[1]。また頼義は出家後に、当社の西側に化輪寺(花輪寺・けりんじ)を建立し、慈覚大師作の阿弥...Wikipediaで続きを読む
引用元情報壺井八幡宮」『ウィキペディア日本語版』。
この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E5%A3%BA%E4%BA%95%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE&oldid=97964927

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