ののうえはちまんじんじゃ
野々上八幡神社のお参りの記録一覧
野々上八幡神社
主祭神 八幡大菩薩
社格等 旧村社
創建 不詳 本
殿の様式 一間社流造
例祭 秋祭り(10月8日)
御由緒
創建は不詳であるが、奈良時代から平安時代初期には「中之太子」で知られる野中寺と同じく建立していたと考えられる。しかし、南北朝時代に勃発した延元の乱の野中寺合戦による兵火により野中寺とともに焼失していた。その後、寛文年間(1661年-1673年)に野中寺の復興に合わせて鎮守社として再建された。 1868年(明治元年)には神仏分離令により野中寺と分けられ、村社に列せられる。一時期大津神社(羽曳野市高鷲)に合祀されたが、1948年(昭和23年)に現在地へ復社した。
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「日本の史跡の宝庫 南河内」によると、百済系渡来氏族である野上連(ののえのむらじ)が、祖神である牛頭天王(スサノオ)を祭って、野々上神社と呼ばれていた。 野上連を調べてみると、野々上にゆかりのある一族のようで、祖先は魏の曹植とのこと。つまり野上連は、百済系ではなく大陸系渡来豪族のようです。
隣接する野中寺を建立したのは、百済系の「船氏」もしくは「津氏」と。
南北朝時代野々上八幡神社近くに「野中寺城」という城が築城されていたようですが、確かな場所は分かっていません。一説には、野々上八幡神社が野中寺城だったとも、野中寺城の見張り台があったともいわれています。
鳥居の先にある2基の石灯篭。「八幡宮」「明治四年」と彫られており、この時期には間違いなく応神天皇が祭られていたようです。
記録に残る戦いとしては、1337年に起きた「野中寺合戦」です。羽曳野市にある古市に陣を張っていた南朝方の岸和田治氏を攻めるため、北朝方の丹下三郎入道西念が松原方面から進撃。両軍は、野中寺あたりで激戦を繰り広げました。 野中寺での戦いで敗れた丹下三郎入道西念は、居城である丹下城に撤退。追撃した岸和田治氏は、付近を焼き払ったと伝わっています。この戦いにより、野々上八幡神社と野中寺の伽藍は焼失することになりました。
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大和で一番美しいと思う、二上山。万葉集にも『西の浄土の入口』と記載され、その西方(裏側)になり、野々上八幡神社の階段を上がった社殿辺りから僅かに見えました。
38年前に見た私の巡礼のルーツの景色を鮮明に思い出しました。
大阪府羽曳野市野々上622
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