みょうこくじ
妙国寺のお参りの記録一覧
堺の参拝、続いて妙国寺。
1562年、三好長慶の弟、実休が日珖に帰依、寺領五百石を寄進した事で建立された日蓮宗寺院。その後学問所、坊を備えた伽藍が完成するが、戦火により焼失。1973年になって再建された。
本堂の枯山水庭園には樹齢1,100 年の蘇鉄があります。織田信長が一度は安土桃山城に持ち帰ったものの、夜、帰りたいとすすり泣き、切り倒すことも叶わなかったため、寺に返されたという謂れがあります。
また、堺事件で無礼を働いたフランス水兵に切りつけた土佐藩士の切腹はここで行われました。
寺自体は再建後50年程度なので新しく綺麗です。堂内、庭園、蘇鉄とも撮影禁止なのでお見せできませんが、拝観は可能でガイドさんが案内くださいます(有料)。
駐車場は境内外ですが、西側にスペースがあります。
御朱印です。
山門。
日蓮上人像
本堂
宇賀神正徳社。
阪堺電車1日切符利用の御朱印巡り。
開口神社のあと数駅乗って妙国寺前下車。
堺勤務自体は行ったことがなく、こちら今回の寺社巡りでも当初予定しておりませんでしたが、南宗寺のボランティアガイドさんが是非!とのおすすめで参拝。
メイン通りから一本入ったところに位置しており、このエリアよく通っていましたがこちらの前の通りは初めてでした。
境内に入る前、外の案内看板でにわか予習。
拝観受付に進むと学生連れ2名と後に来たご夫婦当初5人で拝観。
庭のソテツの剪定中で撮影禁止でしたが、信長、家康や天皇家も宿泊された場所でもあり見事なお庭。
何度かの火災でも残っていた展示物 狭い部屋ながらも貴重な文化財が観られました。
(日蓮宗五十七本山)
摂津国から出て、和泉国へお参りです。
大和川渡り、それほど遠くないところにあるお寺です。
こちらの一帯だけ、時代が遡っているような感じがします。
境内前が開けていて、蘇鉄が有名なだけあり蘇鉄があちこちに植えられています。
1562年、三好長慶の弟・三好実休が大蘇鉄を含む東西三丁南北五丁の土地と寺領500石を寄進したことより開山されたとのこと。
後、1615年、大坂夏の陣の際に、徳川家康が当寺に滞在しているとの話を聞いた豊臣方の大野治房隊によって焼き討ちを受け、全山灰燼に帰してしまったのだそうです。
また、こちらは堺事件(1868年、フランス軍艦の水兵100人と堺警備隊の土佐藩士との国際問題によりフランスに賠償金と共に、箕浦猪之吉、西村左平次等土佐藩士20名に切腹が命じられました。妙國寺において日仏立会人の面前で堂々と割腹自刃したとのことです。)の舞台にもなっています。
ボランティアの方が庭園や宝物館の案内をしてくださいました。
歴史ある品々もかすむほど、土佐藩士の無念が遺品より聞こえるようで、胸がつまりました。
御朱印 日蓮宗五十七本山
堺事件石標
堺事件石標 とさのさむらいはらきりのはか
道標
山門
寺 石標
金剛力士像(阿形)
金剛力士像(吽形)
妙国寺について
縁起
本堂前
本堂
祖師堂
堺事件慰霊碑
鐘楼
1930年頃の妙国寺 webより
宝物館内部 webより
阪堺電車で花田口まで乗り、そこから歩き、もうひとつの堺事件スポット・妙国寺へ。双方の銃撃戦でフランス人たちを多数殺害してしまった土佐藩士ら。事件翌日の早朝、京都にいた山内容堂は、すぐさま同地に滞在していたイギリス公使館員ミットフォードへ、藩士の処罰をフランス側に伝えるよう依頼している。 当時は戊辰戦争のため政府軍主力は関東におり、逆に各国公使と軍艦は神戸事件との絡みで和泉国・摂津国の間にあったため、交渉がこじれ戦端が開かれた場合大いに不利になることが予想された。容堂の判断は、早期に事件を収拾するとともに、まだ脆弱な基盤しか持たない明治政府を守ることにつながる。しかし、自身の国である土佐の人間を守ることや、名誉を保つことは考えなかったようだ。
ミットフォードは夕方に大阪へ到着し、やがてフランス公使ロッシュにこの伝言は届く。各国公使との協議の末、抗議書を明治政府に提出している。
このため、賠償金15万ドルの支払いと殺害にかかわった者全員の処刑という条件を、明治政府はのむほかなかった。
のちに岩倉具視らの嘆願でフランス側も折れ、当初29名だったものを20名にすることに成功する。この人選はくじ引きで決められていて、その場所は現在の西長堀の土佐稲荷だったと伝わる。そしてここ堺の妙国寺で、土佐藩士20人の刑の執行が切腹という形で行われた。
だが藩士らは自らの腸を掴み出し、居並ぶフランス人乗組員らを恫喝。目の前で展開されるあまりにも残酷極まりない地獄絵図に彼らは青ざめ、結局デュプレクス艦長で立会人でもあったアベル・デュプティ=トゥアールが、殺された乗組員と同じ11人の藩士が死んだ時点で、傍らにいた五代友厚に刑の執行停止を要請する。このニュースは世界に広まり、サムライ=日本人は野蛮である、という外国人の認識として長く残ることになったのではないかと思ったりする。ハラキリが国際語になったり、のちの黄禍論の蔓延などを見るにつけ、この事件も影響は少なからずあったのではないかと想像したりもする。
なお、射殺されたフランス人乗組員らは神戸の市立外国人墓地に、切腹した藩士らは妙国寺向かいの宝珠院に葬られている。現在は幼稚園の中にあり、残念ながら見学できなかった。また死を免れた9人の藩士らは、土佐の渡川(四万十川)以西の入田へ配流となっている。
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