まんがんじ|浄土宗
満願寺のお参りの記録一覧
所用で平野にいる。久しぶりに市内でも古い建物が多く残る町を歩いていると、天誅組の文字を見つける。杭全神社の前にある満願寺という寺の門脇に、石碑が出ていたのだ。天誅組は京都・霊山にある隊士の墓地は何度か訪ねているが、司馬遼太郎の短編『おお大砲』の笑撃のラストが忘れられないブリキトースこと大和高取は未踏だし、土佐の吉村寅太郎の死んだ東吉野村はおろか、山口にある首領・中山忠光を祀る中山神社も未踏のままだ。彼らの挙兵で維新が早まった、いや遠くなった、と今でも評価が分かれるそうだ。大和義挙、とも呼ばれたりする。私は時流に乗れず大和五条代官所を襲って無抵抗の代官やその家族を殺した暴徒集団、くらいのニュアンスで捉えていて、あまり好きではなかったりもする。
さて天誅組を挙兵し采配したのは中山忠光と吉村寅太郎と言われているが、実は忠光の叔父にあたる(さらに孝明天皇の叔父でもある)、この中山忠伊という人物が裏で操っていたことがわかっている。きっかけは幕末以前に起こった、朝廷による倒幕運動にまでさかのぼる。
中山忠伊はもともと長仁親王といい、光格天皇の子であった。天皇は自身の父に尊号を贈りたいと幕府に相談するも、その返答が4年間も放置され挙句は却下されてしまう。そしてこの問題で動いた中山愛親を処罰してしまう。この事件によって朝廷では倒幕の声が高まる。愛親の子に忠伊という者がおり、軍資金として金貨を密造し、長州で倒幕を扇動することになるのだが失敗に終わり、忠伊は自刃し運動は収束してしまう。しかし光格天皇はなお倒幕をあきらめられず、退位後の1820年、長仁親王を中山家の養子にし、再び倒幕運動を行うよう命令を下す。
親王は養子に入るにあたって、先に自刃した愛親の子の名前を名乗り、以降各地で頻発した血なまぐさい倒幕運動に裏から関係していくことになる。大阪を焼いた市街戦「大塩平八郎の乱」。但馬出石藩における勤皇派による藩政奪取事件「仙石騒動」。薩摩藩尊皇派が、島津久光の命を受けた同じ藩士たちから惨殺された「寺田屋事件」。主なものでも大きな事件に中山忠伊は直接間接を問わず関わっている。そして天誅組の挙兵時は金剛山に陣を構え、そこから指揮を執っていたという。壊滅後はこの満願寺で息をひそめていたが、幕府の追手がせまり、自害している。辞世句「今日かぎり 平野の露と消ゆる身も 心に懸かる 国の行く末」。
現在の寺には墓があった場所とされる区画と位牌があるのみであるが、区画は荒れようがひどいせいかわからず、さらに位牌は一般公開されていないため石碑と境内だけを少し見るにとどめた。
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