とうじじ
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藤次寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2021年05月27日(木)
参拝:2021年5月吉日
藤次寺(とうじじ)
山号 如意山
宗派 高野山真言宗
本尊
如意宝珠融通尊
創建年
弘仁年間(810年 - 824年)
開基 任瑞、
藤原冬嗣(発願)
別称 大阪の融通さん
札所等
摂津国八十八箇所第19番
融通さんまいり 如意山藤次寺さん
藤次寺は弘仁年間(810年~824年)に藤原冬嗣の発願により、甥(おい)の、任瑞上人を開基とする。藤原家の安泰を願い建立された。藤原家を治める寺であるでゆえに、藤冶寺と称していたが、明治初年には、生玉十坊の一つである地蔵院を合併し、藤次寺と改称し、現在に至っている。
藤原氏の祈願寺として、藤原氏一門より、深い帰依を受け栄えていたが、寺運の盛衰があった。慶長年間(1596年~1615年)に、加藤清正が大檀主となり、金堂、伽藍、堂宇などを建立した。広大な寺域(境内)を持ち、壮観であったと言う。
中興憲遵阿闍梨の時には、如意宝珠融通尊への信仰が盛んになり、「大阪の融通さん」と称されて、多くの人々の信仰を集めている。 明和元年(1764年)、中興清範和上の時、九条尚実が家運長久を祈るため永代不易の祈願寺として改めて、旨辞を授けた。江戸時代末まで、九条家(五摂家の一つ。藤原兼実が祖。)の祈願寺であった。
しかし、昭和20年(1945年)3月、戦災により藤次寺は全焼した。都市計画のために境内地の移転があった。昭和35年(1960年)に金堂、庫裡、寺務所が完成した。
藤次寺の塀の前(山門近く)に、如意山 藤次寺、融通さんまいりと記された石碑がある。
作家・山崎豊子の墓所も藤次寺にあり、墓石の右隣には山崎が生前執筆した全28作の作品名が刻まれた石碑も存在する(一般公開無し)。
大阪府大阪市天王寺区生玉町1-6
山号 如意山
宗派 高野山真言宗
本尊
如意宝珠融通尊
創建年
弘仁年間(810年 - 824年)
開基 任瑞、
藤原冬嗣(発願)
別称 大阪の融通さん
札所等
摂津国八十八箇所第19番
融通さんまいり 如意山藤次寺さん
藤次寺は弘仁年間(810年~824年)に藤原冬嗣の発願により、甥(おい)の、任瑞上人を開基とする。藤原家の安泰を願い建立された。藤原家を治める寺であるでゆえに、藤冶寺と称していたが、明治初年には、生玉十坊の一つである地蔵院を合併し、藤次寺と改称し、現在に至っている。
藤原氏の祈願寺として、藤原氏一門より、深い帰依を受け栄えていたが、寺運の盛衰があった。慶長年間(1596年~1615年)に、加藤清正が大檀主となり、金堂、伽藍、堂宇などを建立した。広大な寺域(境内)を持ち、壮観であったと言う。
中興憲遵阿闍梨の時には、如意宝珠融通尊への信仰が盛んになり、「大阪の融通さん」と称されて、多くの人々の信仰を集めている。 明和元年(1764年)、中興清範和上の時、九条尚実が家運長久を祈るため永代不易の祈願寺として改めて、旨辞を授けた。江戸時代末まで、九条家(五摂家の一つ。藤原兼実が祖。)の祈願寺であった。
しかし、昭和20年(1945年)3月、戦災により藤次寺は全焼した。都市計画のために境内地の移転があった。昭和35年(1960年)に金堂、庫裡、寺務所が完成した。
藤次寺の塀の前(山門近く)に、如意山 藤次寺、融通さんまいりと記された石碑がある。
作家・山崎豊子の墓所も藤次寺にあり、墓石の右隣には山崎が生前執筆した全28作の作品名が刻まれた石碑も存在する(一般公開無し)。
大阪府大阪市天王寺区生玉町1-6
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