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桑津天神社ではいただけません
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くわつてんじんじゃ

桑津天神社のお参りの記録(1回目)
大阪府美章園駅

投稿日:2017年09月07日(木)
参拝:2016年5月吉日
 桑津天神社の「大阪陣戦歿将士慰霊塔」を再訪。ここは夏の陣の茶臼山古戦場からもそう遠くなく、平野や八尾などと同じく多くの将兵の血が流された場所だそうである。さてこの近くに、福島正則に関する史跡があると聞き、住宅地の中をひたすら探す。
 はたして、駒川にかかる小さな橋を渡ったそばの、家と家の間にようやくそれを見つけることができた。名前を「五輪橋橋詰めの塚」という。この塚は、大坂の陣で戦死した豊臣方の武将「柴田権十郎正俊」と、徳川方の武将「蜂須賀九郎右衛門」の2人を供養するために建てられている。

 由来はこうだ。福島正則は豊臣秀吉の子飼いで、賤ヶ岳七本槍にも数えられる猛将だったため、徳川家康は豊臣方への寝返りを警戒し、彼を江戸城留守居役に任命することで行動を封じ込めてしまう。そんな正則の家臣に柴田権十郎正俊という男がいて、不憫な主君の身代わりに豊臣へ従軍する。たまたま八合わせたのか、この地で蜂須賀九郎右衛門と戦い討ち取るが、自らも重傷を負い、自刃してしまう。ちなみに当の正則は、大坂の陣自体に参加していないため、おそらく嫡男の福島忠勝か、他の親族の誰かに付き従って従軍したことが、身代わりとして語られるようになったのではないかと思われるが、このあたりよくわからない。のちに付近の住民が二人の供養をし、2つの五輪塔を建立しているが、なぜか九郎右衛門の墓だけが盗まれたそうで、今は柴田のものだけが残る。

 正則は広島藩の大名となるが、城を無断で改築したかどで幕府から改易される運命をたどる。自分の家臣がかつて豊臣方として戦った事実も関係しているのかは定かではない。
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