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こくぶんじ|真言宗国分寺派護国山

国分寺の御由緒・歴史
大阪府 天神橋筋六丁目駅

ご本尊薬師如来
ご由緒

大化元年(645年)末に孝徳天皇が難波長柄豊碕宮を造営するも、崩御の後、斉明天皇により飛鳥板蓋宮へ遷都される。その後、入唐大阿闍梨道昭、勅を奉じて先帝の菩提を祈るため難波長柄豊碕宮の旧址に一宇を建立し「長柄寺」と称した。そして、仏教に深く帰依した聖武天皇により天平十三年(741年)一国一寺の「国分寺建立の詔」を公布されると、既存の「長柄寺」を摂津之国国分寺(金光明四天王護国之寺)として定める。世俗「長柄の国分寺」と称され、今日まで歴代天皇十四帝の勅願道場として由緒ある法灯を伝燈してきた。古くは難波往古図に「国分尼寺」として記載されている。

しかし、長い歴史の中幾度も戦火に晒され、中でも豊臣氏が滅亡した大坂夏の陣、元和元年(1615年)には全焼、その後約百年余り荒廃の極みであった。
そして江戸時代、享保三年(1718年)に中興の祖律師快圓により再建され文献に登場する。
このような伽藍も明治の廃仏毀釈などの混乱期に境内地が縮小され明治三十年(1897年)には時の座主教曻により諸堂修営され聖武天皇尊殿や記念碑が建立されるも、昭和九年の室戸台風により甚大な被害を受け、更には昭和二十年(1945年)第二次大戦の大阪大空襲により旧書院門(現山門)を残し寺宝諸共灰燼に帰した。

戦後、境内地は区画整理や一部官有地であった為、大幅に縮小されるも、順次再興し、昭和四十年(1965年)昭和金堂を天平の古式にのっとり落慶、昭和五九年(1984年)弘法大師千百五十年御遠忌の頃現在の姿となる。

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