だいせいしょうぐんじ
御朱印・神社お寺の検索サイト楽しみ方
大聖勝軍寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2018年02月18日(日)
参拝:2018年2月吉日
太子堂と言う名前が大きく書かれてあったので、ここが大聖勝軍寺だとは思わなかったんですよ(苦笑)
塔頭かなにかだろうかと・・・。
で、裏から入れるのかと回ったら普通に裏で(笑)ああ、あの太子堂がお寺さんだったんだと納得(笑)
そんなに大きなお寺さんではなかったんですが、色々と歴史的有名な場所なので興味は尽きません。
古神道を信じ、宮中の国儀一切を仕切っていた物部守屋が仏教を国内に入れる事に反対し、蘇我馬子と聖徳太子の軍と戦いになった事は有名な歴史ですが、この地が守屋終焉の地とされています。
このお寺さんはそういった背景から守屋に勝った事を祝って建てられたというのでこの名前になっているそうです。
この地域は「太子堂」と呼ばれている地域で大阪には「太子堂」がいくつかあって、河南町の叡福寺(えいふくじ)の「上の太子」、羽曳野市の野中寺(やちゅうじ)の「中の太子」に対して、ここは「下の太子」と呼ばれています。
迹見赤檮の矢によって守屋は殺されたのですが、その弓を放った場所に「弓代塚」(探し忘れた)が立っており、守屋を射抜いた矢が落ちた場所が「鏑矢塚」(図書館の隣にあった)そして守屋の首を洗ったのが門前の「守屋池」(探すのを忘れた)があります。
近くには守屋のお墓もあります(別項目で紹介)
ここの御朱印は鏑矢のハンコがされてました。
塔頭かなにかだろうかと・・・。
で、裏から入れるのかと回ったら普通に裏で(笑)ああ、あの太子堂がお寺さんだったんだと納得(笑)
そんなに大きなお寺さんではなかったんですが、色々と歴史的有名な場所なので興味は尽きません。
古神道を信じ、宮中の国儀一切を仕切っていた物部守屋が仏教を国内に入れる事に反対し、蘇我馬子と聖徳太子の軍と戦いになった事は有名な歴史ですが、この地が守屋終焉の地とされています。
このお寺さんはそういった背景から守屋に勝った事を祝って建てられたというのでこの名前になっているそうです。
この地域は「太子堂」と呼ばれている地域で大阪には「太子堂」がいくつかあって、河南町の叡福寺(えいふくじ)の「上の太子」、羽曳野市の野中寺(やちゅうじ)の「中の太子」に対して、ここは「下の太子」と呼ばれています。
迹見赤檮の矢によって守屋は殺されたのですが、その弓を放った場所に「弓代塚」(探し忘れた)が立っており、守屋を射抜いた矢が落ちた場所が「鏑矢塚」(図書館の隣にあった)そして守屋の首を洗ったのが門前の「守屋池」(探すのを忘れた)があります。
近くには守屋のお墓もあります(別項目で紹介)
ここの御朱印は鏑矢のハンコがされてました。
すてき
ホトカミ見ました! で広がるご縁
ホトカミを見てお参りされた際は、もし話す機会があれば住職さんに、「ホトカミ見てお参りしました!」とお伝えください。
住職さんも、ホトカミを通じてお参りされる方がいるんだなぁと、ホトカミ無料公式登録して、情報を発信しようという気持ちになるかもしれませんし、
「ホトカミ見ました!」きっかけで豊かな会話が生まれたら、ホトカミ運営の私たちも嬉しいです。