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富貴寺ではいただけません
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ふきじ

富貴寺のお参りの記録(1回目)
大分県立石駅

投稿日:2024年10月20日(日)
参拝:2024年10月吉日
【蓮華山(れんかさん)富貴寺(ふきじ)】
本尊:不動明王(本堂)・阿弥陀如来(大堂)
宗派:天台宗
開基:仁聞(にんもん)

~百寺巡礼:五木寛之氏が選んだ百の名刹 第99番~

 富貴寺は、大分県豊後高田市田染蕗(たしぶふき)にある。718(養老2)年、阿弥陀堂を建立したのがはじまりとされる。本山本寺の西叡山高山寺の末寺とされる。宇佐神宮六郷満山霊場第4番。
 ~富貴寺という名前は、「富む」という字に「貴い」という字をあてて「ふき」と読んでいるが、以前は植物のフキの字で「蕗寺(ふきじ)」と書いていたらしい。この「蕗」というのは、富貴寺がある地域一帯の地名である。(中略)この蕗のあたりは、宇佐神宮の神宮寺だった弥勒寺の修行の山でもあり、寺領でもあった。そのため、僧侶兼開拓者兼農民というような人たちが、山中で信仰生活を送りながらこうした寺を開いていったらしい。半農半僧といってもいいだろう。ところが、江戸時代になると、幕府の身分制度や宗教政策のなかで、農業をしながら僧侶をするということが許されなくなった。半農半僧だった人びとは、農民か僧侶かどちらかを選ぶように迫られたのである。とはいえ、米や野菜をつくる農民が減って、人から施しを受けて生きる僧侶が多くなれば、村全体が生きていけなくなる。そのため、大半の人びとは僧の道を棄てて、農民になる道を選らばざるをえなかった。
 こうして、六郷満山のかつての六十数ヶ寺の多くは、このころに廃寺になってしまったらしい。
 だが、そのなかで富貴寺はかろうじて生き残ることができた。そして優美な堂宇をいまに伝え、かつての六郷満山の隆盛の歴史を物語っているのである。~

~『百寺巡礼 第十巻 四国・九州』五木寛之(講談社、2005)~
富貴寺(大分県)
【寺号標】
富貴寺(大分県)
【仁王門】
富貴寺(大分県)
【仁王 阿形像】
富貴寺(大分県)
【仁王 吽形像】
富貴寺(大分県)
【山門 奉納額】
富貴寺(大分県)
【大堂】
 国宝。
富貴寺(大分県)
【大堂 左側】
富貴寺(大分県)
【大堂 裏側】
 堂内入口。
富貴寺(大分県)
【大堂 右側】
富貴寺(大分県)
【御神木(銀杏)】
富貴寺(大分県)
【御神木(榧木(かやのき))】
富貴寺(大分県)
【笠塔婆】
富貴寺(大分県)
【十王像】
富貴寺(大分県)
【奪衣婆】
富貴寺(大分県)
【国東塔】
富貴寺(大分県)
【大堂】
富貴寺(大分県)
【薬師岩屋】
 大堂の裏山。急傾斜な岩肌。
 ~古代の山岳修験者たちは、こうした場所で瞑想にふけったり、のみをふるって仏像を岩壁に刻んだりしていたのではあるまいか。(中略)古代の修験者や行者たちは、あちこちに点在するこうした岩屋で修行をつんでいた。官僧ではない、いわば非公式な僧がこの地に集まってきて、自分たちの仏の道を思索して、それをきわめようとしたのである。~
富貴寺(大分県)
【薬師如来】
富貴寺(大分県)
【白山社(六所権現)】
富貴寺(大分県)
【鳥居】
富貴寺(大分県)
【拝殿】
富貴寺(大分県)
【本殿】
富貴寺(大分県)
【大堂】
富貴寺(大分県)
【仮本堂】
 「本堂」解体修理中のため仮本堂を参拝。
富貴寺(大分県)
【仮本堂 内陣】
富貴寺(大分県)
富貴寺(大分県)
【ネコさん】
 帰りに出会ったネコさん。精悍な容姿。
富貴寺(大分県)
【不動明王御影】
 富貴寺本堂解体修理記念。
富貴寺の御朱印
【御朱印】

すてき

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