曹洞宗
香林寺のお参りの記録一覧
『萬松山と号し、五庵と呼ぶ。文安元年(1444)長尾信濃守頼景が一庵を開き、その曽孫為景は永正の頃、五菴庵青巌院天甫清公比丘尼(謙信の母)を住主とした。
清公比丘尼には、妙雲、妙泉、貞全、本瑞の四比丘尼が随侍し、五庵を建立した。為景の子上杉謙信も守護仏として兜に納め尊崇していた純金の釈迦誕生仏を奉納し、現存している。
謙信の遺偈として、「四十九年一暁夢、一期栄花一杯酒、綈柳緑花紅」の句を保存す。当寺では、頼景、為景、清公比丘尼の三人を開基とし謙信を併せその供養を常に厳修している。洞照寺第四世章山梵芸和尚は、香林寺と改め、開山となる。
明治十年(1877)八月二十三世天翁和尚の時、火災に遭い、文書等鳥有に帰した。庭にあるしだれ桜は、香林寺と改める時に、仙台の青葉城より、謙信の菩提と母親の菩提のため送られたものである。樹齢四百五十有余念の老木は、今でも春蘭花のごとく、咲き揃い、市民を楽しませている。』
『萬松山と号し、五庵と呼ぶ。文安元年(1444)長尾信濃守頼景が一庵を開き、その曽孫為景は永正の頃、五菴庵青巌院天甫清公比丘尼(謙信の母)を住主とした。
清公比丘尼には、妙雲、妙泉、貞全、本瑞の四比丘尼が随侍し、五庵を建立した。為景の子上杉謙信も守護仏として兜に納め尊崇していた純金の釈迦誕生仏を奉納し、現存している。
謙信の遺偈として、「四十九年一暁夢、一期栄花一杯酒、綈柳緑花紅」の句を保存す。当寺では、頼景、為景、清公比丘尼の三人を開基とし謙信を併せその供養を常に厳修している。洞照寺第四世章山梵芸和尚は、香林寺と改め、開山となる。
明治十年(1877)八月二十三世天翁和尚の時、火災に遭い、文書等鳥有に帰した。庭にあるしだれ桜は、香林寺と改める時に、仙台の青葉城より、謙信の菩提と母親の菩提のため送られたものである。樹齢四百五十有余念の老木は、今でも春蘭花のごとく、咲き揃い、市民を楽しませている。』
『萬松山と号し、五庵と呼ぶ。文安元年(1444)長尾信濃守頼景が一庵を開き、その曽孫為景は永正の頃、五菴庵青巌院天甫清公比丘尼(謙信の母)を住主とした。
清公比丘尼には、妙雲、妙泉、貞全、本瑞の四比丘尼が随侍し、五庵を建立した。為景の子上杉謙信も守護仏として兜に納め尊崇していた純金の釈迦誕生仏を奉納し、現存している。
謙信の遺偈として、「四十九年一暁夢、一期栄花一杯酒、綈柳緑花紅」の句を保存す。当寺では、頼景、為景、清公比丘尼の三人を開基とし謙信を併せその供養を常に厳修している。洞照寺第四世章山梵芸和尚は、香林寺と改め、開山となる。
明治十年(1877)八月二十三世天翁和尚の時、火災に遭い、文書等鳥有に帰した。庭にあるしだれ桜は、香林寺と改める時に、仙台の青葉城より、謙信の菩提と母親の菩提のため送られたものである。樹齢四百五十有余念の老木は、今でも春蘭花のごとく、咲き揃い、市民を楽しませている。』
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