あんぜんじ|天台宗|金峯山
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四月十五日 蔵王 金峯山静観院 安禅寺様 参拝させていただきました。
先日のマルシェ 御開帳の感謝できました。
御開帳の予定
5月 3日 4日 5日と御開帳をされます(この投稿参拝日の時点の予定です)。
マルシェは10月9日の予定です。
画像の女性は、江戸幕府 二代将軍 徳川秀忠様の側室 妙徳院様(栖吉城主の娘として生まれる)です。 ただの側室と思うなかれ、秀忠様との子は正室の子として育てられ、後水尾天皇の妃になりました。秀忠様の死後、天海僧正の手で髪を下ろされ、尼になり長岡に戻ります。帰郷時に化粧代 三百石や、高価な品々を賜りました(手厚い待遇だと思います)。その後、長岡の財政基盤作りに貢献しました。 こちらに来られたなら、境内の正善霊神(せいぜんれいじん) 祀られる妙徳院様にもご挨拶していただければと思います。
カード型の御守りが新しくありました。
九頭竜大権現 本地仏弁財天様の御守りです。
毘沙門堂
正善霊神
妙徳院様の碑です
妙徳院様 紹介紙
紹介紙1
紹介紙2
場所
カード型御守り
肌守り
九頭竜大権現
七月七日 長岡市蔵王に座します 安禅寺様 参拝させていただきました。
御開帳 7月15日になります。
久しぶりに御朱印をお受けしました(セルフですが)。
御開帳 7月15日
御朱印 毘沙門天
御朱印 蔵王大権現
御朱印 不動明王
御朱印 十一面観音
歴史
『蔵王権現堂の別当寺、修験堂の本山であった当寺は、道昭上人の開山により、和銅二年(709)大和国吉野蔵王権現を模刻して古志郡楡原に勧請したが、保元の乱の戦災をうけて三島郡矢田を経て仁治年間(1242)現在地に遷座されたと伝えられている。中興の祖であった義道大僧正の入寂、宝永七年(1710)以後東叡山輪王寺宮の御兼帯となり、教儀は信徒に任かせられ長く別当の職は中絶していた。
安政二年(1855)慈性法親王の命によって安住院亮貫は、浅草寺より安禅寺別当に転住した。戊辰の役の戦火で寺は灰爐に帰し、明治三年(1870)神仏分離によって廃寺となり、蔵王権現堂を守るためには還俗して三芳野千春と称し金峯神社の社司にならざるを得なかった。その後寺再興の志黙し難く、神官を辞して比叡山に入り修行に専心した。明治十七年(1884)になって寺の復興を許可され、今日に至っている。』
名称 | 安禅寺 |
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読み方 | あんぜんじ |
トイレ | あり |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
電話番号 | 0258-32-7664 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
詳細情報
ご本尊 | 毘沙門堂 本尊 毘沙門天 観音堂 十一面観音 |
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山号 | 金峯山 |
院号 | 静観院 |
宗旨・宗派 | 天台宗 |
創建時代 | 和銅元年 708年 |
ご由緒 | 『蔵王権現堂の別当寺、修験堂の本山であった当寺は、道昭上人の開山により、和銅二年(709)大和国吉野蔵王権現を模刻して古志郡楡原に勧請したが、保元の乱の戦災をうけて三島郡矢田を経て仁治年間(1242)現在地に遷座されたと伝えられている。中興の祖であった義道大僧正の入寂、宝永七年(1710)以後東叡山輪王寺宮の御兼帯となり、教儀は信徒に任かせられ長く別当の職は中絶していた。 安政二年(1855)慈性法親王の命によって安住院亮貫は、浅草寺より安禅寺別当に転住した。戊辰の役の戦火で寺は灰爐に帰し、明治三年(1870)神仏分離によって廃寺となり、蔵王権現堂を守るためには還俗して三芳野千春と称し金峯神社の社司にならざるを得なかった。その後寺再興の志黙し難く、神官を辞して比叡山に入り修行に専心した。明治十七年(1884)になって寺の復興を許可され、今日に至っている。』 |
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