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2026年05月14日(木) 00時37分 bysoo_cyan
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天正十一年四月(1583年)豊臣秀吉が柴田勝家と織田信長の後継者の地位を争って賎ヶ岳で合戦。 このとき加藤清正・福島正則・片桐且元・秀吉ら七人の武将が槍を振るって勇名をはせ、世にこれを「賎ヶ岳の七本槍」と称して名高い。 その内の一人、平野權平長泰は数々の軍功により、田原本他六ヶ村を賜り五千石の領主となった。 その子長勝が二代目領主となり、田原本に陣屋を築造した。 先代の長泰より寺内町の経営を任されていた真宗寺院の教行寺との間に支配権のことで対立し、教行寺を箸尾へ立ち退かせた。 慶安四年(1651年)、この跡地に長勝は一寺を建立し、本願寺第十三世門主良如上人に寄付し、御門跡兼帯所(別院)として格式ある寺とした。 門跡寺院として筋壁(表塀の五本の筋)を許された。 また、本願寺御坊に列せられ大和に七十二ヶ寺の末寺や配下を持ち、重大な法要には本願寺門主あるいはその使僧を迎えて行うのが例となっていた。 御坊は大和に五ヶ所あり、今井・御所・高田・畝傍と合わせて五ヶ所御坊と称せられる。御坊は中本山のようなもので、特別の格式と権威を持っていた。 最初円城寺といい、寛延二年(1749年)寺号を改めて浄照寺と称した。
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慶安四年(1651年)
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平野長勝