しょうもぐう
聖母宮のお参りの記録一覧
聖母宮(しょうもぐう)
旧社格:郷社
御祭神:息長足姫尊、足仲彦尊、誉田別尊、住吉大神
鳥居
参道には歴史の有りそうな石垣があります。
加藤清正公が奉納した正門だそうで、
神社周囲の石垣も当時風待ち時に配下に積ませたものだそうです。
手水鉢はシャコ貝ぽいのですが、
あまりの大きさに半信半疑でしたが、
パラオから寄贈されたものだそうです。
境内にお神輿も保管されていました。
季節限定など数種類の書き置きの御朱印が用意されています。
神主の夏の自由研究
「壱岐島をはじめ海人の歴史と信仰」(その3)
[壱岐7社][壱岐島42社巡り]参詣難易度★
壱岐二之宮。勝本の総鎮守「聖母宮」
土地の人々の崇敬厚いお宮です。
また、壱岐国式内社24座のひとつ中津神社の論社ともされています。
聖母宮
[御祭神]
息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)【神功皇后】
足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)【仲哀天皇】
誉田別尊(ほむだわけのみこと)【応神天皇】
上筒男命、仲筒男命、底筒男命
配祀:天照皇大神(神明神社合祀により)
玉垂神(たまたれのかみ)【高良玉垂神】
烏賊津連(いかつのむらじ)【伊香津臣命】
真根子連 (まねこのむらじ)【壱岐眞根子臣】
奈良時代初期に創建されたと言われています。門は文禄の役の時に加藤清正が寄進したもので、のどかな表情の牛の石像は名工山内利兵衛の作です。
神社所蔵の茶壺は「天正20年」(1592)銘の古唐津焼きで、口は欠けていますが学術研究上大変貴重なものです。秋には例祭カザモト祭が行われます。
聖母宮は、古くは「香椎宮(かしいぐう)」と称し、古来より筑前(福岡市)の香椎宮との繋がりが深く、筑前香椎宮の編年記には「詔テ神鏡ヲ附シ玉フ。東ハ鴨山、西ハ壱岐、南ハ住吉、北ハ尾呂。コレヲ四限トセリ。」と、香椎廟の四至のことが記されているそうです。鳥居は江戸期石造肥前型鳥居です。
『壱岐名勝図誌』によると、仲哀天皇の九年神功皇后は肥前唐津の神集島で三韓出兵の勝利を祈願し、土器崎より壱岐に向けて三、二七〇艘の軍船を出発させた。この時、船が進むのにつごうの良い東風が吹きはじめた土器崎の地を風本と名づけ東風が吹きゆく壱岐の方向を風早と名づけた。
壱岐すなわち風早の島についた皇后は風まちをして対馬の鰐津に向けて出帆した地を風本と名づけ、三韓からの帰りに再び立ち寄られ出兵の勝利を祝い勝本を改められたという。
皇后は、出兵の往来にさいし行宮を勝本に建てられたが、御殿はその後放置されてしまった。しかし毎夜海中から光る物があがってくるという出来事が続いたので里人は鏡を御殿に納めて神功皇后を神としてしまつったのがこの神社であると伝う。
また、一説には異敵の首101,500を持ち帰った皇后は、風本の浜に穴に掘って埋められ、九町八反の築地を一夜で築きその上に宝殿をつくり、聖母の社を建てられたとあります。
文化財 昭和四十七年に長崎県指定有形文化財とされた茶壺が有名 壺の銅部に『進入、日本いきしま、風本宮、聖母大菩薩、御神物ちやいれ、是ヲ心サス、喜斉、百良内村生、宗靏沙門(花押)天正廿年 敬白』の銘がある。
その他に数多くの文化財が伝えられているが神社の西門と南門は豊臣秀吉の朝鮮出兵の折りに、加藤清正と鍋島直茂によって造営寄進されたと伝えている。
この西門(正門)の前方には、神功皇后の御乗馬の足跡がのこるという馬蹄石がある。 (境内案内板より)
祭典日 :旧暦1月17日 祈漁祭 大神楽、10月13日 宵祭 大神楽、10月14日 例大祭 神幸・大神楽、10月30日 神迎祭 大神楽
馬蹄石
神功皇后の御乗馬の足跡がのこるという
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