みずさわけいさんじんじゃ
水澤桂山神社のお参りの記録一覧
波多神社から若澤寺跡地に向かう水澤林道の山道の右側に鎮座する小さな祠がある神社で、由来も解りませんが、石碑に水澤桂山神社と刻まれ、別の石碑に梵字と寛永十ニ年とあるので西暦1635年には鎮座していたようです。
下記に記載した若澤寺への途中にあることから、なんらかの関連があるのではないでしょうか。
若澤寺史跡保存会の方が整備されているのかわかりませんが、鉄の鳥居⛩️があり、しめ縄飾りが施されていました。
廃寺ではありますが、若澤寺(江戸時代信濃日光と呼ばれた大寺院)を一緒に紹介したいと思います。
水澤桂山神社の上にあった若澤寺は、山号を慈眼山(じげんざん)または水沢山(みずさわやま・すいたくさん)といい、新義真言宗京都智積院末の寺院でした。江戸時代には広大な伽藍が整備されて多くの人々が訪れ、「信濃日光」と呼ばれていましたが、明治初年の廃仏毀釈により廃寺となり、多くの建物は取り壊されたり移築されました。現地で見られるのは、田村堂、金堂、中堂、護摩堂、方丈それぞれの石垣と礎石だけですが、遺構の規模が賑わっていた大伽藍を彷彿とさせます。
若澤寺はもと、ここから約2km山奥の元寺場跡(もとてらばあと、市特別史跡)に開かれ、室町時代に水沢谷(みずさわだに)の現在地に下り、戦国から江戸時代初期には、武田勝頼や小笠原氏により寺領を安堵されました。江戸時代後期の文化年間(1804年~1817年)には「若澤寺一山之略絵図」に描かれている伽藍ができあがったと考えられます。
その堂塔・什物の多くが松本平の他の寺院等に移され、その姿から往時の姿をしのぶことができます。主なものとしては、田村堂が山麓の上波田阿弥陀堂の前に、金堂(薬師堂)が今井の正覚院に、鐘楼が梓川の恭倹寺に移されました。また、山麓の盛泉寺には観音堂が移され(現在は改築)、水沢観音は信濃三十三ヶ所観音霊場のひとつとなっています。盛泉寺にはその他多数の仏像等が伝わり、大切に残されています。
↓若澤寺から移された主な指定文化財
田村堂(重要文化財)
正覚院観音堂(松本市重要文化財)
恭倹寺鐘楼並びに梵鐘(松本市重要文化財)
銅造伝薬師如来坐像御正体残闕(県宝・盛泉寺蔵)
銅造菩薩半跏像(県宝・盛泉寺蔵)
銅造菩薩立像(松本市重要文化財・盛泉寺蔵)
銅造薬師如来坐像御正体残闕(松本市重要文化財・個人蔵)
木造不動明王立像(松本市重要文化財・盛泉寺蔵)
真言宗祖師像(松本市重要文化財・盛泉寺蔵)
金亀多宝塔(松本市重要文化財・盛泉寺蔵)
水澤桂山神社
後方は崖になった山道に鎮座
寛永十ニ年と彫られた石碑
若澤寺(水澤桂山神社)に向かう水澤林道左側
若澤寺(水澤桂山神社)に向かう水澤林道
若澤寺(水澤桂山神社)に向かう水澤林道横の清流
水澤林道
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