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むかばきじんじゃ

行縢神社の編集履歴
2024年07月08日(月)
宮崎県 延岡駅

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くう
2024年07月08日 16時17分

ご由緒

元正天皇の御宇、養老二年四月十五日に紀州の熊野権現を勧請したもので、行縢山三所大権現と称して、伊弉冉命、事解男命、速玉男命の三座を祭神としていた。
県領主土持氏歴代の祈願所で篤く信仰された。永仁二年(1294)四月八日付の平某補任状以下別当職に関する数通の古文書が残っており、正和三年(1341)に静全から別当職を譲られた慶全が、元弘三年(1333)熊野参詣のために別当の代行を願っている。(『県史蹟調査第七輯』)
当時、別当、神主、下社家が奉仕しており、別当の住寺を行縢山大日寺と称し、多くの末寺を有していたもので、今でも行縢山中にその跡が点在しており、社領は行縢山の箭筈(矢筈とも書く)の滝を背に広大にして景勝の地である。
天正九年(1581)領主土持家と豊後府内の城主大友家との戦乱に、土持親成が行縢山を本拠として戦ったため、社域も戦場と化して、神殿、堂宇は悉く戦火のため炎上し、焦土となった。以後、社運はとみに衰退し、別当もこの地に去り、専ら神職奉仕の神社となった。歴代領主の尊崇篤く、延岡藩主有馬直純は社領米二十石を寄進したが、三浦氏になり十石に減じた。しかし、その後、内藤家に至る代々の領主の祈願所となり、大祭には直参、代参の制もあり、年二回領内へ祈祷の璽を頒布し、社殿の造営等も領主が行い、宝暦二年(1752)には内藤政樹が、宝暦九年(1759)には内藤政陽が造営したことが棟札によって知られる。
明治四年神社改正の際には村内鎮座の小社である山神社(祭神 大山祇命)外二十三社の祭神を本社に合祀し、同五年郷社に列せられた。
当社所蔵の鉄鰐口一口は、慶長十年(1605)延岡初代藩主高橋統種(元種)息女寄進の銘があり、径四十七㌢総厚十八、五㌢撞座の径十三、六㌢で、銘文から日向地方の作と推定され、昭和四十年県文化財に指定されている。鰐口とは仏堂前の軒下につるし、参詣者が綱を振って鳴らす扁円、中空の金具で、下方に横長い口があり、金鼓ともいう。明治元年の神仏分離の布告で、仏像、梵鐘などとともに神社に置くことを禁止されたものである。
本社の鎮座する行縢山(標高八三〇㍍)及び瀑布は奥の院と称する神体山で、幽厳壮大なる山岳美を現し、向かって左側を雄岳と言い、右側を雌岳を称して、其の中央の瀑布を箭筈滝(幅二〇㍍高さ100㍍)と言う。
景行天皇の御宇、皇子日本武命が熊襲の将、川上梟師征討の伝説地であって、皇子、駕を舞野の里に駐めて、この山をご覧になり、その形状が行縢(向脛にはく意で、鹿、熊などの毛皮でつくり、腰から脚にかけておおいとしたもの。奈良時代から変遷はあるが、平安末期からは武士が騎馬の際着用した。)に似ているので行縢山と言い、其の滝を箭筈と言って、歌われた歌は「布引の箭筈の滝を射てみれば、川上梟師落ちて流るる」と、いまも延岡地方の神楽歌として用いられている。また源氏、平家の時代、鎮西八郎源為朝は九州平定の際、本社に参籠し、武運長久を祈願して社領三〇〇貫を寄進したと言われ、社域に為朝腰掛け石が保存されている。
昨今、登山者多く、社頭も老若男女で賑わっている。

編集前:元正天皇の御宇、養老二年四月十五日に紀州の熊野権現を勧請したもので、行縢山三所大権現と称して、伊弉冉命、事解男命、速玉男命の三座を祭神としていた。
県領主土持氏歴代の祈願所で篤く信仰された。永仁二年(1294)四月八日付の平某補任状以下別当職に関する数通の古文書が残っており、正和三年(1341)に静全から別当職を譲られた慶全が、元弘三年(1333)熊野参詣のために別当の代行を願っている。(『県史蹟調査第七輯』)
当時、別当、神主、下社家が奉仕しており、別当の住寺を行縢山大日寺と称し、多くの末寺を有していたもので、今でも行縢山中にその跡が点在しており、社領は行縢山の箭筈(矢筈とも書く)の滝を背に広大にして景勝の地である。
天正九年(1581)領主土持家と豊後府内の城主大友家との戦乱に、土持親成が行縢山を本拠として戦ったため、社域も戦場と化して、神殿、堂宇は悉く戦火のため炎上し、焦土となった。以後、社運はとみに衰退し、別当もこの地に去り、専ら神職奉仕の神社となった。歴代領主の尊崇篤く、延岡藩主有馬直純は社領米二十石を寄進したが、三浦氏になり十石に減じた。しかし、その後、内藤家に至る代々の領主の祈願所となり、大祭には直参、代参の制もあり、年二回領内へ祈祷の璽を頒布し、社殿の造営等も領主が行い、宝暦二年(1752)には内藤政樹が、宝暦九年(1759)には内藤政陽が造営したことが棟札によって知られる。
明治四年神社改正の際には村内鎮座の小社である山神社(祭神 大山祇命)外二十三社の祭神を本社に合祀し、同五年郷社に列せられた。
当社所蔵の鉄鰐口一口は、慶長十年(1605)延岡初代藩主高橋統種(元種)息女寄進の銘があり、径四十七㌢総厚十八、五㌢撞座の径十三、六㌢で、銘文から日向地方の作と推定され、昭和四十年県文化財に指定されている。鰐口とは仏堂前の軒下につるし、参詣者が綱を振って鳴らす扁円、中空の金具で、下方に横長い口があり、金鼓ともいう。明治元年の神仏分離の布告で、仏像、梵鐘などとともに神社に置くことを禁止されたものである。
本社の鎮座する行縢山(標高八三〇㍍)及び瀑布は奥の院と称する神体山で、幽厳壮大なる山岳美を現し、向かって左側を雄岳と言い、右側を雌岳を称して、其の中央の瀑布を箭筈滝(幅二〇㍍高さ100㍍)と言う。
景行天皇の御宇、皇子日本武命が熊襲の将、川上梟師征討の伝説地であって、皇子、駕を舞野の里に駐めて、この山をご覧になり、その形状が行縢(向脛にはく意で、鹿、熊などの毛皮でつくり、腰から脚にかけておおいとしたもの。奈良時代から変遷はあるが、平安末期からは武士が騎馬の際着用した。)に似ているので行縢山と言い、其の滝を箭筈と言って、歌われた歌は「布引の箭筈の滝を射てみれば、川上梟師落ちて流るる」と、いまも延岡地方の神楽歌として用いられている。また源氏、平家の時代、鎮西八郎源為朝は九州平定の際、本社に参籠し、武運長久を祈願して社領三〇〇貫を寄進したと言われ、社域に為朝腰掛け石が保存されている。
昨今、登山者多く、社頭も老若男女で賑わっている。

御朱印

あり

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