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a.tanaka
a.tanaka
2025年02月26日(水) 19時50分48秒
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御浜町大字川瀬に鎮座されています。
 尾呂志地区では、秋から冬にかけての天気の良い早朝、北からの風に乗って、尾根伝いに、山頂から山裾までの一面、滝のように一気に流れ落ちる乳白色の壮大な朝霧がかかる。「風伝おろし」とも呼ばれ、この地区の地名「尾呂志」の由来となっています。

尾呂志神社(三重県)

一の鳥居 左側に駐車スペースが有ります

尾呂志神社(三重県)

階段を下りた低いところに境内があります

尾呂志神社(三重県)
尾呂志神社(三重県)

参道途中の「尾呂志川」に流れ込む小さな滝

尾呂志神社(三重県)

手水舎

尾呂志神社(三重県)
尾呂志神社(三重県)
尾呂志神社(三重県)

拝殿

尾呂志神社(三重県)

尾呂志神社本殿のしめ縄の上にかけられている「社神志呂尾」と書いてある扁額(へんがく)を見ると、「社」の文字の左側に「正二位伯爵通禧書(しょうにいはくしゃくみちとみしょ)」とあります。
この扁額は、東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)という人によって書かれたものです。あまりピンとこないお名前かもしれませんが、実はこの方は、幕末の頃尊王攘夷派の公家で、蛤御門(禁門)の変で失脚し、長州藩士とともに長州へ落ちのびた「七卿落ち」の一人で、後に太宰府へ行き、その際に「薩長同盟」についてお願いに来た坂本龍馬とも面会しているそうです。王政復古の後は、明治政府の要職を歴任した公家であり政治家でした。

なぜ、そのような方が尾呂志神社の扁額を書くに至ったのか。その理由はあと二人の人物がかかわっていたと思われます。「洋装の土方歳三」の写真で有名な熊野市出身の写真家田本研造と熊野一帯では絶大な信用を得ていた尾呂志の酒屋東家です。東久世伯と田本研造、田本研造と東家がお互いに懇意にしており、明治時代に尾呂志の神社を合祀して、できたばかりの尾呂志神社の扁額の題字を、東久世伯が巡見に来られた際三人の関係からお願いしたのではないかと思われます。
                     熊野古道センターHPより

尾呂志神社(三重県)

御祭神名の書かれた額

尾呂志神社(三重県)

本殿

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尾呂志神社(三重県)
本殿
尾呂志神社(三重県)
御祭神名の書かれた額
尾呂志神社(三重県)
尾呂志神社本殿のしめ縄の上にかけられている「社神志呂尾」と書いてある扁額(へんがく)を見ると、「社」の文字の左側に「正二位伯爵通禧書(しょうにいはくしゃくみちとみしょ)」とあります。 この扁額は、東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)という人によって書かれたものです。あまりピンとこないお名前かもしれませんが、実はこの方は、幕末の頃尊王攘夷派の公家で、蛤御門(禁門)の変で失脚し、長州藩士とともに長州へ落ちのびた「七卿落ち」の一人で、後に太宰府へ行き、その際に「薩長同盟」についてお願いに来た坂本龍馬とも面会しているそうです。王政復古の後は、明治政府の要職を歴任した公家であり政治家でした。 なぜ、そのような方が尾呂志神社の扁額を書くに至ったのか。その理由はあと二人の人物がかかわっていたと思われます。「洋装の土方歳三」の写真で有名な熊野市出身の写真家田本研造と熊野一帯では絶大な信用を得ていた尾呂志の酒屋東家です。東久世伯と田本研造、田本研造と東家がお互いに懇意にしており、明治時代に尾呂志の神社を合祀して、できたばかりの尾呂志神社の扁額の題字を、東久世伯が巡見に来られた際三人の関係からお願いしたのではないかと思われます。                      熊野古道センターHPより
尾呂志神社(三重県)
拝殿
尾呂志神社(三重県)
尾呂志神社(三重県)
尾呂志神社(三重県)
手水舎
尾呂志神社(三重県)
参道途中の「尾呂志川」に流れ込む小さな滝
尾呂志神社(三重県)
尾呂志神社(三重県)
階段を下りた低いところに境内があります
尾呂志神社(三重県)
一の鳥居 左側に駐車スペースが有ります
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尾呂志神社の基本情報

住所

三重県南牟婁郡御浜町大字川瀬361

行き方
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名称

尾呂志神社

読み方

おろしじんじゃ

詳細情報

ご祭神《主》伊邪那岐命,天照大御神,応神天皇,倉稲魂命,軻遇突智命
ご由緒

 当社の創始年代は不明であるが、社宝として慶長10年(1605)の棟札が伝存しており、少なくとも江戸期以前まで遡るものと思われる。かつては、川瀬神社と称し、上野・栗須・川瀬地区の産土神として氏子の崇敬を集めていた。明治39年12月、神饌幣帛料供進社に指定。同41年2月18日、当社境内社の伊勢神明神社(天照大御神)、若宮神社(應神天皇)、靈符神社(倉稲魂神)、及び大字川瀬の秋葉神社(軻遇突智命)、大字阪本の折山神社を合祀の上、尾呂志神社と改称。次いで、翌々年9月29日、大字上野の若宮八幡社を合祀した。昭和26年1月8日には、神社本庁の承認を受けて、折山神社を旧鎮座地に分祀。

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