いっしきじんじゃ
一色神社の編集履歴
ご由緒
当社の創祀については詳らかではないが、往古より大楠を御神樹として、小祠を建てそれを産土神として奉斎したものだと伝えられている。古くは、龍田、川端、南平当の諸氏が、この一色の地に居住し、祭祀を執行していたが、天正年間(1573~1592)、多気の国司であった北畠氏が滅亡した際に、その家臣であった槌屋、菊川、吉川、宮崎、寺田、石原当の諸氏の30余人が、落武者となって一色の地に到り、武具を売払い、神殿を造営し、門囲垣を作って、諸氏の渇仰する氏神、産土神を新たに奉斎した。これが当一色神社の原形だと言われている。明治以前の当社は、一色社の他に、槌屋以下の諸氏が衆を結び結衆と称して奉祀した四社が横一列に並んでいた。即ち、北畠氏の祖先を祀る多気社、建速須佐之男命を祀る津島社、天児屋根命を祀る春日社、応神天皇を祀る八幡社である。また、明治維新までは、正月6日の神楽、同11日の弓ノ祭、3月3日の神楽、月次神楽の際には、宇治神楽館大夫禰宜榊原左内が神主として、結衆立合の上、神事を奉仕し、また、毎戸の竃清祓等を行なっていたと言われる。明治41年には、先述の境内末社を合祀し、同村内の昌久寺境内に鎮座していた無格社塩竃社、琴平社、稲荷社、秋葉社、菅原社を合祀し一色の産土神として尊崇奉斎され、今日に至っている。また、この一色に古くから伝わる能楽は市指定の無形民族文化財になっている。この能楽は、もと呪師系統の猿楽であったといい、「シンガク」にわずかながらその面影が伝わっているという。それは「翁」の前に行なわれるもので、右手に鈴、左手にばちを持った「シンガク」が四方に進んで足拍子を踏むという簡単な所作のものだが、これが古態であると言われている。
行事
大祭3月11日