のじりじんじゃ
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野志里神社について
延喜式に名を列ねる古社で、皇大神宮後遷座の旧跡。
倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が新たな後鎮座の土地を求めて大和を出発し、伊賀、近江、美濃、尾張などを経てこの野代の里に後遷御されたと伝えられています。
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元伊勢と呼ばれる地に参拝させてもらいました。 駐車場が判らなく集会所前に
止めさせて貰いました。 綺麗に管理された境内です。 拝殿奥に千人塚が建立
去れて居り、合わせて参拝させてもらいました。
社標
由来
拝殿
本殿
千人塚
倭姫命が伊勢への旅をしていたとき、一時、天照大神を祀ったと伝わる桑名野代宮であると言われています。歴史を感じ落ち着ける場所です。
由緒書
伊勢神宮御旧跡野代の宮と書かれた石碑
御神木
常夜灯
手水舎
由緒の書かれた石碑
拝殿
本殿
千人塚の説明書
千人塚
歴史
社伝によれば、垂仁天皇の御代の創始と伝えている。 すなわち『倭姫命世紀』の倭姫命が天照大神を奉じて美濃の伊久良河宮から尾張中島宮にお移りになり、 さらに御船に乗られて桑名郡野代宮にお着きになり、四年間この地で宮居を造られ、國造大若子命が参じ相共にお仕へしたと云ふ。 倭姫命は、その後伊勢に追孝され、その野代官の行宮の跡に本社を則祀して野志服神社と唱へたものである。 現社地の東方に平安時代からの下野代遺跡があり、県くから開けていたことが判る。 平安時代には『延喜式神名帳』記載の桑名郡一四座の一座として野志里神社の名が 載せられている。 当社を式内野志里神社にあてることについては、古くから考証されており、 『勢陽雑記』『御遷幸図説』『神名帳傍註』以下の諸書もすべて下野代村を郷名とし現社地を鎮座地に求めている。 最も新しい『式内社調査報告』においても、同様な見解 である。文徳天皇仁寿元年(五八一)以降、土御門天皇建仁元年(一二〇一)、 亀山天皇弘長元年(一二六一)各々神階を進められ、従五位上に叙せられた。近世には春日明神と俗称せられていたことが地誌類等によって知られる。 近郊の氏神として篤く崇敬されていたものと思われる。
なお現在、神職は不在で、多度大社が兼務している。
名称 | 野志里神社 |
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読み方 | のじりじんじゃ |
通称 | ノシロさん |
詳細情報
ご祭神 | 《主》天照大神《合》建御雷神,天児屋根命,経津主神,姫神,大山咋神,速玉之男神,事解之男神,八衢比古神,八衢比売神,衝立衝立久那戸神,火之迦具土神, 火之夜芸速男神,火之炫毘古神,品陀和気命,大山津見神,宇迦之御魂神,白山比売神, |
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ご由緒 | 社伝によれば、垂仁天皇の御代の創始と伝えている。 すなわち『倭姫命世紀』の倭姫命が天照大神を奉じて美濃の伊久良河宮から尾張中島宮にお移りになり、 さらに御船に乗られて桑名郡野代宮にお着きになり、四年間この地で宮居を造られ、國造大若子命が参じ相共にお仕へしたと云ふ。 倭姫命は、その後伊勢に追孝され、その野代官の行宮の跡に本社を則祀して野志服神社と唱へたものである。 現社地の東方に平安時代からの下野代遺跡があり、県くから開けていたことが判る。 平安時代には『延喜式神名帳』記載の桑名郡一四座の一座として野志里神社の名が 載せられている。 当社を式内野志里神社にあてることについては、古くから考証されており、 『勢陽雑記』『御遷幸図説』『神名帳傍註』以下の諸書もすべて下野代村を郷名とし現社地を鎮座地に求めている。 最も新しい『式内社調査報告』においても、同様な見解 である。文徳天皇仁寿元年(五八一)以降、土御門天皇建仁元年(一二〇一)、 亀山天皇弘長元年(一二六一)各々神階を進められ、従五位上に叙せられた。近世には春日明神と俗称せられていたことが地誌類等によって知られる。 近郊の氏神として篤く崇敬されていたものと思われる。
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