しょうげんじ
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照源寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2024年12月22日(日)
参拝:2024年11月吉日
浄土宗 東海山 照源寺
桑名駅から北西へ徒歩で約10分ほど。
この日は相当歩き回って、もう足も限界に近付いていましたが、なんとか気力を振り絞って参拝させていただきました。
とても立派な山門からふと中を覗くとその先にはさらに立派な本堂と手入れされた庭園があり、頑張って参拝してよかったと思いました。
ご住職がご不在とのことで御朱印は書置きとなりましたが、書置きをいただけただけでも有難かったです。
<縁起>~照源寺HPより~
寛永元年(1624年)桑名藩主であった松平隠岐守定勝公(徳川家康公の異父弟)の御逝去に際し、二代将軍徳川秀忠公の台命により 御父菩提の為、御子の松平隠岐守定行公が新規に一寺を建立し、当地に埋葬しました。すなわち当山は松平家菩提の為に建立されたお寺です。
寛永十二年(1635年)に、定行公の伊予松山への御所替えにつき、御舎弟 松平 越中守定綱公が大垣より当城に移封されました。定綱公は、定勝の廟を当寺に残し、知恩院より深誉長意を迎えて当地の住職とし、寺領弐百石を附して松平家代々の菩提所としました。松山の定行公もまた仏供料として百石を附されています。
当初は東海山 泥垣院 崇源寺と号しました。それは定勝公の御法号(戒名)「崇源院殿」に因るものです。
しかしのち、寛永三年にご逝去された秀忠公ご夫人の御法号(戒名)が偶然に「崇源院殿」と一致して、松平定綱公がご遠慮され 寺号を改め 照源寺 としました。山号の頭文字「東」と、寺号の頭文字「照」の二字を合わせて「東照」となる由縁は、東照大権現(徳川家康)をお祀りしたことによります。
桑名藩菩提寺である照源寺が徳川家康公の供養をする事により、桑名藩松平家は徳川家に対し末代にわたり忠誠を示した事になりました。現在もなお徳川家康公 木像、御位牌を安置し、ご供養お祀りをさせていただいております。
開山は 遠州掛川天然寺 宗連社伝譽三甫大和尚です。
桑名駅から北西へ徒歩で約10分ほど。
この日は相当歩き回って、もう足も限界に近付いていましたが、なんとか気力を振り絞って参拝させていただきました。
とても立派な山門からふと中を覗くとその先にはさらに立派な本堂と手入れされた庭園があり、頑張って参拝してよかったと思いました。
ご住職がご不在とのことで御朱印は書置きとなりましたが、書置きをいただけただけでも有難かったです。
<縁起>~照源寺HPより~
寛永元年(1624年)桑名藩主であった松平隠岐守定勝公(徳川家康公の異父弟)の御逝去に際し、二代将軍徳川秀忠公の台命により 御父菩提の為、御子の松平隠岐守定行公が新規に一寺を建立し、当地に埋葬しました。すなわち当山は松平家菩提の為に建立されたお寺です。
寛永十二年(1635年)に、定行公の伊予松山への御所替えにつき、御舎弟 松平 越中守定綱公が大垣より当城に移封されました。定綱公は、定勝の廟を当寺に残し、知恩院より深誉長意を迎えて当地の住職とし、寺領弐百石を附して松平家代々の菩提所としました。松山の定行公もまた仏供料として百石を附されています。
当初は東海山 泥垣院 崇源寺と号しました。それは定勝公の御法号(戒名)「崇源院殿」に因るものです。
しかしのち、寛永三年にご逝去された秀忠公ご夫人の御法号(戒名)が偶然に「崇源院殿」と一致して、松平定綱公がご遠慮され 寺号を改め 照源寺 としました。山号の頭文字「東」と、寺号の頭文字「照」の二字を合わせて「東照」となる由縁は、東照大権現(徳川家康)をお祀りしたことによります。
桑名藩菩提寺である照源寺が徳川家康公の供養をする事により、桑名藩松平家は徳川家に対し末代にわたり忠誠を示した事になりました。現在もなお徳川家康公 木像、御位牌を安置し、ご供養お祀りをさせていただいております。
開山は 遠州掛川天然寺 宗連社伝譽三甫大和尚です。
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