おだかさん かんのんどう尾高山
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三重県の寺院巡りの2寺目は、いなべ市の西隣りの三重郡菰野町に在る尾高山 観音堂です。
菰野町は湯の山温泉や鈴鹿山脈の御在所岳に架かる御在所ロープウェイで有名です。
浄土宗で、本尊は千手観音。
この千手観音は、毎年4月の第2土·日に開帳されます。よってこの日を選んで参拝した訳です。
杉谷に生まれた女性が仏法に深く帰依し、国見岳に釈迦仏を祀ったのが始まりと云われています。後にこの地に巡錫した役行者が霊地であることを知り、再興して国見岳を釈迦ケ岳と改称。持統天皇(687~696年)の頃に奈良の大安寺の諸仏の中から千手観音を迎えて祀ったのが尾高観音の開基と伝わります。その後、千手観音のあらたかな霊験を伝え聞いた桓武天皇が堂塔の造営し、尾高山引接寺の勅号を下賜した。延暦年間に最澄の弟子の澄光上人が、近江の六角氏の庇護を受けて、現在の尾高野に仏庵を移し本尊を迎た。1163年に藤原養敬が、本堂をはじめ釈迦堂・経堂・不動堂・大師堂・山門・講堂・開山堂などの七堂伽藍を完成させた。しかし、織田信長の兵火により堂塔は焼失。その後、藤原氏の一族が小堂を再興して本尊を安置した。現在の六角堂は1815年に杉谷の増田兵蔵が建てたものです。
菰野町の杉谷を目指して行きます。30台位停めれる無料駐車場があります。目印としてはラ・シュボーシェという乗馬倶楽部で、道を挟んだ隣りです。尾高山へハイキングされる方も停めていました。駐車場から10分位歩くと観音堂の境内。檀家さん?の方々が大勢いらっしゃいました。本尊·千手観音から5色糸で結ばれた回向柱が建っています。真新しくないのでずっと建てられているのでしょうか?回向柱に触れてから六角堂の下陣で手を合わせました。千手観音までやや距離があるので細かな所まではわかりませんが、割と綺麗ですので近年に修復されたのでしょうか。
無住のため年に1度の開帳日以外は誰も居ないです。伊勢西国三十三所霊場の札所(引接寺)で、現在は慈眼寺の奥の院となっていて、御朱印は慈眼寺で頂くそうです。今回は寺務所が開いていたのでそちらでお願いしました。(ご住職が不在で書置きでした。)
尾高観音を後にしてこの菰野町にあるパラミタミュージアムへ行きました。快慶の弟子の長快作十一面観音を所蔵しているため観たかったし、また、奈良薬師寺の障壁画を書いた平山郁夫展(4/2~6/5)が開催されていましたのでこの機会にと。
御朱印
参道
手水
六角堂(観音堂)
千手観音
パラミタミュージアム
パラミタミュージアム所蔵の十一面観音·長快作
歴史
釈迦岳直下の山麓、檜の古木が美しい林を作っている静かな森の奥に、六角堂の屋根が見えている。尾高観音堂の本尊は御丈5尺8寸(約1.7m)程の等身大木彫りの千手観音立像であり、聖徳太子作と言われている。
古くから伊勢観音三十三番の札所として庶民に親しまれてきた。この尾高観音は、旧引接寺といい二十五番の札所であり、二十六番の札所は杉谷の村中にある慈眼寺で旧観音寺といった。いずれも中世は天台宗、若しくは熊野信仰の混交で杉谷寺と総称されて大いに栄えたときがあった。昭和38(1963)年と同40(1965)年に発掘調査を行い、明らかになった「杉谷遺跡」の五輪塔と蔵骨器の出土品は、この時代の杉谷仏教文化の繁栄ぶりを証する遺跡である。これらの中世の寺院は永禄11(1568)年信長の伊勢進攻により滅亡した。
江戸期杉谷村は桑名藩領下に組み入れられ、この観音堂は引接寺と称し桑名藩主の菩提寺、浄土宗照源寺の末寺に置かれた。その為か、本尊千手観音を安置する厨子は桑名城主の寄進といわれる。
明治5(1872)年になって住職無住、そして無檀家の寺院は廃寺の令が出て、一時、本寺の照源寺預かりとなった。この廃寺の令を杉谷の村民は哀しみ、一村共有の山林2町4反歩を寺地として寄進、また檀徒も新しく37名を募り再興の願いを県に上申した。明治20(1887)年になり、宇治山田岩淵町の空寺、慈眼寺の株を本寺照源寺の斡旋により譲り受け、寺号を慈眼寺として再興が許された。その後は慈眼寺の奥の院としてこの観音堂は守られてきた。
現本堂は六角堂で、基壇は六角型で花崗岩の切石積みである。堂は文化12(1815)年杉谷の宮大工増田兵蔵が建立し、嘉永4(1851)年に修理を行い、更に昭和10(1935)年、同57(1982)年に屋根の萱葺替えを行っている。屋根の頂部に六角の露盤(仏塔の相輪のいちばん下にある盤)に請花付の宝珠をのせている。本堂前に天和2(1682)年建立の各石燈籠がある。
名称 | 尾高山 観音堂 |
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読み方 | おだかさん かんのんどう |
通称 | 尾高観音 |
参拝にかかる時間 | 約15分 |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
ホームページ | town.komono.mie.jp |
巡礼の詳細情報
伊勢西国三十三所観音霊場 第元25番 | 御本尊:千手観世音菩薩 |
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詳細情報
山号 | 尾高山 |
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宗旨・宗派 | |
ご由緒 | 釈迦岳直下の山麓、檜の古木が美しい林を作っている静かな森の奥に、六角堂の屋根が見えている。尾高観音堂の本尊は御丈5尺8寸(約1.7m)程の等身大木彫りの千手観音立像であり、聖徳太子作と言われている。 古くから伊勢観音三十三番の札所として庶民に親しまれてきた。この尾高観音は、旧引接寺といい二十五番の札所であり、二十六番の札所は杉谷の村中にある慈眼寺で旧観音寺といった。いずれも中世は天台宗、若しくは熊野信仰の混交で杉谷寺と総称されて大いに栄えたときがあった。昭和38(1963)年と同40(1965)年に発掘調査を行い、明らかになった「杉谷遺跡」の五輪塔と蔵骨器の出土品は、この時代の杉谷仏教文化の繁栄ぶりを証する遺跡である。これらの中世の寺院は永禄11(1568)年信長の伊勢進攻により滅亡した。 江戸期杉谷村は桑名藩領下に組み入れられ、この観音堂は引接寺と称し桑名藩主の菩提寺、浄土宗照源寺の末寺に置かれた。その為か、本尊千手観音を安置する厨子は桑名城主の寄進といわれる。 明治5(1872)年になって住職無住、そして無檀家の寺院は廃寺の令が出て、一時、本寺の照源寺預かりとなった。この廃寺の令を杉谷の村民は哀しみ、一村共有の山林2町4反歩を寺地として寄進、また檀徒も新しく37名を募り再興の願いを県に上申した。明治20(1887)年になり、宇治山田岩淵町の空寺、慈眼寺の株を本寺照源寺の斡旋により譲り受け、寺号を慈眼寺として再興が許された。その後は慈眼寺の奥の院としてこの観音堂は守られてきた。 現本堂は六角堂で、基壇は六角型で花崗岩の切石積みである。堂は文化12(1815)年杉谷の宮大工増田兵蔵が建立し、嘉永4(1851)年に修理を行い、更に昭和10(1935)年、同57(1982)年に屋根の萱葺替えを行っている。屋根の頂部に六角の露盤(仏塔の相輪のいちばん下にある盤)に請花付の宝珠をのせている。本堂前に天和2(1682)年建立の各石燈籠がある。 |
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