みくりやじんじゃ
御厨神社の編集履歴
郵便番号
674-0092
ご由緒
当社の創始については詳らかなことはわからないが、その前身は飯高郡下ツ牧(現、平生)の平生御厨である。往古、平生は参宮の駅路にあたり勅使参向の時には当社に止館し、交通の安全を祈願したと伝える。それに由来してか、現在でも当社を見送神社と俗称している。中世には伊勢国司北畠氏の信仰篤く、度々供物が献納された。戦国時代に入ると戦火により社殿は退廃し、僅かに神垣が昔の名残りを留めるに過ぎなかった。天正12年(1584) 蒲生氏郷が四五百(よいほの)森に松坂城を構築する際、当社の尊厳を考え城郭の大手先に奉遷したが、元和6年(1620)紀州藩主徳川頼宣の家臣、長野九左衛門が城の鬼門の鎮守として現在地に移した。嘉永3年(1850年)紀州侯が「境内殺生禁断」の石標を献納し、毎年正月には城門において獅子舞を奉納するを例とした。明治2年(1869)2月明治天皇神宮御参拝の折、当地に御駐車されている。明治41年(1908)に八幡神社、奥津彦神社、市岐島姫神社を合祀した。因みに、国学の泰斗、本居宣長も当社を常に尊崇し、多数の図書を献じている。[三重県神社庁HP当神社ページより]
編集前:当社の創始については詳らかなことはわからないが、その前身は飯高郡下ツ牧(現、平生)の平生御厨である。往古、平生は参宮の駅路にあたり勅使参向の時には当社に止館し、交通の安全を祈願したと伝える。それに由来してか、現在でも当社を見送神社と俗称している。中世には伊勢国司北畠氏の信仰篤く、度々供物が献納された。戦国時代に入ると戦火により社殿は退廃し、僅かに神垣が昔の名残りを留めるに過ぎなかった。天正12年(1584) 蒲生氏郷が四五百(よいほの)森に松坂城を構築する際、当社の尊厳を考え城郭の大手先に奉遷したが、元和6年(1620)紀州藩主徳川頼宣の家臣、長野九左衛門が城の鬼門の鎮守として現在地に移した。嘉永3年(1850年)紀州侯が「境内殺生禁断」の石標を献納し、毎年正月には城門において獅子舞を奉納するを例とした。明治2年(1869)2月明治天皇神宮御参拝の折、当地に御駐車されている。明治41年(1908)に八幡神社、奥津彦神社、市岐島姫神社を合祀した。因みに、国学の泰斗、本居宣長も当社を常に尊崇し、多数の図書を献じている。
ご祭神/ご本尊
建速須佐之男命
加夫呂岐命
火産霊命
編集前:建速須佐之男命、加夫呂岐命、火産霊命
参拝時間
参拝自由
社務所:留守なことが多いため要事前連絡
参拝所要時間
約10分
参拝料
なし
創立
大化二年(646)ごろ
創始者/開山・開基
不詳
本殿/本堂の建築様式
神明造
巡礼
松阪霊地七福神(恵比寿)
行事
春祭(祈年祭)2月26日
湯立神事 7月15日
夏越祭 7月25日
祇園祭 7月17日
例祭宵宮祭 9月16日
例祭 9月17日
新穀感謝祭(新嘗祭)11月26日
ご神体
不詳