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大徳寺ではいただけません
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大徳寺のお参りの記録(2回目)
投稿日:2024年01月20日(土)
参拝:2024年1月吉日
京都市北区にあるお寺です。
「京の冬の旅」で 法堂と仏殿が特別公開されるのでお参りしました。
大徳寺は駐車場もあり お参りしやすいですし 塔頭もたくさんあって見どころ満載でもあります。
山号は龍寶山 宗旨宗派は臨済宗大徳寺派 寺格は大本山 (もと京都五山) ご本尊は釈迦如来です。
普通にお参りした時には 仏殿も法堂も外観を見ることしかできず 中は全く見ることができませんでしたので 今回の特別公開はとても楽しみでした。
写真撮影は禁止ですので 撮ることはできませんでしたが とても歴史ある天井画を見ることができました。
仏殿の 狩野元信筆の「天人散華図」は色がだいぶ落ちてしまっていて いつまでもつのか不安でした。
法堂の 狩野探幽筆の「雲龍図」は見事な睨みをきかせていました。
鳴き龍としても有名で 手をたたくと共鳴音が響きました。
大徳寺の歴史は書くのが長すぎるので 乱暴ですが 一部だけをまとめました。
大徳寺は 座禅修行に専心する厳しい禅風を特色としている林下(幕府の庇護を受けない)の寺院として 五山の気風を快く思わない禅僧たちが集う場だったそうです。
妙心寺もその一派です。
大徳寺は 貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄え 室町時代以降は一休宗純をはじめとする名僧を輩出しました。
享徳2年(1453年)の火災 そして応仁の乱による被害で当初の伽藍を焼失しましたが 一休宗純が堺の豪商・尾和宗臨らの協力を得て復興しました。
また 各地の守護大名によって塔頭が建立されたりもしています。
天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変で 織田信長が自害した後の同年10月15日には 羽柴秀吉によって信長の葬儀が当寺で盛大に執り行われています。
翌年には秀吉によって信長の菩提寺として 塔頭・総見院が創建されています。
日本各地に織田信長の墓所がありますが 総見院はその中で別格の寺院とも言えます。
「京の冬の旅」で 法堂と仏殿が特別公開されるのでお参りしました。
大徳寺は駐車場もあり お参りしやすいですし 塔頭もたくさんあって見どころ満載でもあります。
山号は龍寶山 宗旨宗派は臨済宗大徳寺派 寺格は大本山 (もと京都五山) ご本尊は釈迦如来です。
普通にお参りした時には 仏殿も法堂も外観を見ることしかできず 中は全く見ることができませんでしたので 今回の特別公開はとても楽しみでした。
写真撮影は禁止ですので 撮ることはできませんでしたが とても歴史ある天井画を見ることができました。
仏殿の 狩野元信筆の「天人散華図」は色がだいぶ落ちてしまっていて いつまでもつのか不安でした。
法堂の 狩野探幽筆の「雲龍図」は見事な睨みをきかせていました。
鳴き龍としても有名で 手をたたくと共鳴音が響きました。
大徳寺の歴史は書くのが長すぎるので 乱暴ですが 一部だけをまとめました。
大徳寺は 座禅修行に専心する厳しい禅風を特色としている林下(幕府の庇護を受けない)の寺院として 五山の気風を快く思わない禅僧たちが集う場だったそうです。
妙心寺もその一派です。
大徳寺は 貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄え 室町時代以降は一休宗純をはじめとする名僧を輩出しました。
享徳2年(1453年)の火災 そして応仁の乱による被害で当初の伽藍を焼失しましたが 一休宗純が堺の豪商・尾和宗臨らの協力を得て復興しました。
また 各地の守護大名によって塔頭が建立されたりもしています。
天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変で 織田信長が自害した後の同年10月15日には 羽柴秀吉によって信長の葬儀が当寺で盛大に執り行われています。
翌年には秀吉によって信長の菩提寺として 塔頭・総見院が創建されています。
日本各地に織田信長の墓所がありますが 総見院はその中で別格の寺院とも言えます。
すてき
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くるくるきよせん2024投稿
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