ほんぽうじ
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楽しみ方本法寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2026年02月13日(金) 22時25分00秒
参拝:2026年2月吉日
【叡昌山(えいしょうざん)本法寺(ほんぽうじ)】
本尊:三宝尊
宗派:日蓮宗
開山:日親(にっしん)
~『百寺巡礼』五木寛之氏が選んだ百の名刹 第87番~
本法寺は、京都市上京区本法寺前町、小川通に位置します。日蓮宗僧侶、日親上人(1407-1488)によって築かれた日蓮宗の本山です。本法寺は、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)の菩提寺であり、長谷川等伯(はせがわとうはく)ゆかりの寺院です。
京都にはじめて日蓮宗を広めたのは、日親より140年以上前に上洛した日像(にちぞう)という僧でした。日蓮から京都での伝道を託された彼は1294(永仁2)年にはじめて京都へ足を踏みいれています。日像は何度も京都から追放されますがねばり強く布教をつづけ、ついに後醍醐天皇の時代に公認されました。そして日蓮宗は商人などの町の人たち(町衆)の宗教として根づいていきました。日親がやってきたころの京都は、裕福な町衆たちの支持を得て、日蓮宗は法華宗と呼ばれ大きな勢力をもつようになっていました。京都へ来る前の日親は、九州肥前国の光勝寺の住職でしたが、厳格な言動から摩擦が絶えず追放されてしまいます。それから、京都へのぼった日親は6代足利義教(よしのり)に直訴します。日蓮が説いた「法華経」の信仰だけを信じ、他の信仰はすべて排するように、と訴えました。しかし、それが義教の怒りに触れる結果となり、二度目の直訴をしようとしていたとき、捕らえられ、獄舎にいれられてしまいます。日親は、重い刑罰を受けたといわれています。もっともはげしいものは、真っ赤に焼いた鍋を頭にかぶせる、という残酷きわまりないものでした。しかし、日親はその苦難に耐えて生き延びました。それ以来、人びとは日親を「なべかむり日親」と呼び、畏敬の念をいだくようになったといわれています。
~『百寺巡礼 第九巻 京都Ⅱ』五木寛之(講談社、2005)~
本尊:三宝尊
宗派:日蓮宗
開山:日親(にっしん)
~『百寺巡礼』五木寛之氏が選んだ百の名刹 第87番~
本法寺は、京都市上京区本法寺前町、小川通に位置します。日蓮宗僧侶、日親上人(1407-1488)によって築かれた日蓮宗の本山です。本法寺は、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)の菩提寺であり、長谷川等伯(はせがわとうはく)ゆかりの寺院です。
京都にはじめて日蓮宗を広めたのは、日親より140年以上前に上洛した日像(にちぞう)という僧でした。日蓮から京都での伝道を託された彼は1294(永仁2)年にはじめて京都へ足を踏みいれています。日像は何度も京都から追放されますがねばり強く布教をつづけ、ついに後醍醐天皇の時代に公認されました。そして日蓮宗は商人などの町の人たち(町衆)の宗教として根づいていきました。日親がやってきたころの京都は、裕福な町衆たちの支持を得て、日蓮宗は法華宗と呼ばれ大きな勢力をもつようになっていました。京都へ来る前の日親は、九州肥前国の光勝寺の住職でしたが、厳格な言動から摩擦が絶えず追放されてしまいます。それから、京都へのぼった日親は6代足利義教(よしのり)に直訴します。日蓮が説いた「法華経」の信仰だけを信じ、他の信仰はすべて排するように、と訴えました。しかし、それが義教の怒りに触れる結果となり、二度目の直訴をしようとしていたとき、捕らえられ、獄舎にいれられてしまいます。日親は、重い刑罰を受けたといわれています。もっともはげしいものは、真っ赤に焼いた鍋を頭にかぶせる、という残酷きわまりないものでした。しかし、日親はその苦難に耐えて生き延びました。それ以来、人びとは日親を「なべかむり日親」と呼び、畏敬の念をいだくようになったといわれています。
~『百寺巡礼 第九巻 京都Ⅱ』五木寛之(講談社、2005)~

【多宝塔】

【小川通】
~京都を南北に走る堀川通から一筋はいったところ。車の行き来がはげしいメインストリートのすぐ東側である。茶道の裏千家の今日庵(こんにちあん)があり、表千家の不審庵(ふしんあん)があり、柳の木があり、小川が流れている。なんともいえない風情のある一角だった。(中略)それにしても、京都はやはり奥深いところである。このあたりはいわゆる観光地ではないし、観光客が歩く場所でもない。しかし、なんともいえず、古都の趣を漂わせている。~
~京都を南北に走る堀川通から一筋はいったところ。車の行き来がはげしいメインストリートのすぐ東側である。茶道の裏千家の今日庵(こんにちあん)があり、表千家の不審庵(ふしんあん)があり、柳の木があり、小川が流れている。なんともいえない風情のある一角だった。(中略)それにしても、京都はやはり奥深いところである。このあたりはいわゆる観光地ではないし、観光客が歩く場所でもない。しかし、なんともいえず、古都の趣を漂わせている。~

【仁王門】


【摩利支天(まりしてん)堂】
摩利支天は、すがたをつねに隠していて、障害や災難を取り除き、利益を与えてくれる神で、そのルーツはインドの民間信仰の神で、太陽や月や陽炎を神格化したものだそうです。
摩利支天は、すがたをつねに隠していて、障害や災難を取り除き、利益を与えてくれる神で、そのルーツはインドの民間信仰の神で、太陽や月や陽炎を神格化したものだそうです。


【狛猪 阿形】
和気清麻呂を祀る神社が猪でしたが、ここも猪です。摩利支天尊のお使いが猪のようです。
和気清麻呂を祀る神社が猪でしたが、ここも猪です。摩利支天尊のお使いが猪のようです。

【狛猪 吽形】

【鐘楼】

【多宝塔】


【経蔵】

【本堂】
~本堂の前に、独特のすがたをした松の木があり、その横にブロンズの像が立っていた。これは、「光悦松(こうえつまつ)」と「画聖等伯像(がせいとうはくぞう)」、つまり本阿弥光悦が植えた松と長谷川等伯の像だという。桃山時代を代表するといってもいい本阿弥光悦と長谷川等伯というふたりのアーチストが、この本法寺と深いかかわりをもっていた。~
~本堂の前に、独特のすがたをした松の木があり、その横にブロンズの像が立っていた。これは、「光悦松(こうえつまつ)」と「画聖等伯像(がせいとうはくぞう)」、つまり本阿弥光悦が植えた松と長谷川等伯の像だという。桃山時代を代表するといってもいい本阿弥光悦と長谷川等伯というふたりのアーチストが、この本法寺と深いかかわりをもっていた。~

【光悦松】
本阿弥家は、室町時代から刀剣の鑑定などを家職として、代々将軍に仕えてきた家系でした。ところが、六代目の本阿弥清信が将軍の怒りにふれて、投獄されてしまいます。偶然にも、このとき同じ獄舎にいたのが日親でした。
~本阿弥清信は、獄中で出会った日親に帰依し、日親から本光という法名をもらう。それ以来、本阿弥家は日蓮宗の有力スポンサーとして、本法寺を支えていくことになった。子孫に「光」の文字をつけるようになったのも、このときからだという。この本阿弥本光の曾孫(ひまご)が光悦である。~
本阿弥家は、室町時代から刀剣の鑑定などを家職として、代々将軍に仕えてきた家系でした。ところが、六代目の本阿弥清信が将軍の怒りにふれて、投獄されてしまいます。偶然にも、このとき同じ獄舎にいたのが日親でした。
~本阿弥清信は、獄中で出会った日親に帰依し、日親から本光という法名をもらう。それ以来、本阿弥家は日蓮宗の有力スポンサーとして、本法寺を支えていくことになった。子孫に「光」の文字をつけるようになったのも、このときからだという。この本阿弥本光の曾孫(ひまご)が光悦である。~

【画聖等伯像】
30歳をすぎた長谷川等伯は北陸の能登から京都への上洛をはたします。そのとき、本法寺をはじめとする日蓮宗の寺を頼ります。本法寺は等伯にとって、能登にある菩提寺の本山でした。
30歳をすぎた長谷川等伯は北陸の能登から京都への上洛をはたします。そのとき、本法寺をはじめとする日蓮宗の寺を頼ります。本法寺は等伯にとって、能登にある菩提寺の本山でした。

【本堂】

【開山堂】

【唐門】

【庫裏】


【佛涅槃図(ぶつねはんず)】
国の重要文化財。等伯が息子 久蔵の七回忌追善供養のために描いた、縦約10メートル、横約6メートルに及ぶ涅槃図。パンフレットより。
国の重要文化財。等伯が息子 久蔵の七回忌追善供養のために描いた、縦約10メートル、横約6メートルに及ぶ涅槃図。パンフレットより。

【十(つなし)の庭】


【巴の庭】
本阿弥光悦が手がけた唯一の庭園。
本阿弥光悦が手がけた唯一の庭園。










【御朱印】
すてき
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