りゅうほんじ|日蓮宗|具足山
立本寺の編集履歴
通称
西龍華
ご由緒
日像が創建した妙顕寺を起源とする。日蓮の弟子で京都での布教に携わった日像は元亨元年(1321年)、御溝傍今小路(京都市上京区)に妙顕寺を創建。暦応4年(1341年)、四条櫛笥(下京区四条大宮付近)に寺地を移した[1]。妙顕寺は嘉慶元年(1387年)山門(延暦寺)により破却されるが、明徳4年(1393年)、三条坊門堀川(二条城南東付近)に再興され、寺号を妙本寺と改めた。
応永20年(1413年)、妙本寺は再度山門により破却され、5世月明は丹波に難を逃れた。応永23年(1416年)、日実は妙顕寺の旧地(四条櫛笥)に寺を再興し、本応寺と号したが、一方、月明は五条大宮に妙本寺を再興(後に妙顕寺に復称)、本応寺と対立した。この本応寺が改称して立本寺と号した[2]。なお、妙顕寺(妙本寺)と本応寺(立本寺)の分立については異説もあり、明徳4年(1393年)、日実が四条櫛笥の旧地に妙顕寺を再興し、本応寺(のち立本寺)と号したとする説もある[3]。
立本寺は天文5年(1536年)天文法華の乱で他の法華宗寺院とともに焼失し、堺に避難するが、天文11年(1542年)後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、法華宗寺院は京都へ戻ることとなった。立本寺は天文13年(1544年)新町三条に伽藍を再建した。その後文禄3年(1594年)、豊臣秀吉の命により、寺町今出川(上京区立本寺前町)にふたたび移転した。
宝永5年(1708年)宝永の大火で焼失後、現在の地に移転し、伽藍を再建した。
妙顕寺、妙覚寺、立本寺の三寺で「龍華の三具足(りゅうげのみつぐそく)」と呼ばれている。
現住は97世上田日瑞貫首(京都市妙円寺より晋山)。生師松ヶ崎法縁。
編集前:日像が創建した妙顕寺を起源とする。日蓮の弟子で京都での布教に携わった日像は元亨元年(1321年)、御溝傍今小路(京都市上京区)に妙顕寺を創建。暦応4年(1341年)、四条櫛笥(下京区四条大宮付近)に寺地を移した[1]。妙顕寺は嘉慶元年(1387年)山門(延暦寺)により破却されるが、明徳4年(1393年)、三条坊門堀川(二条城南東付近)に再興され、寺号を妙本寺と改めた。
応永20年(1413年)、妙本寺は再度山門により破却され、5世月明は丹波に難を逃れた。応永23年(1416年)、日実は妙顕寺の旧地(四条櫛笥)に寺を再興し、本応寺と号したが、一方、月明は五条大宮に妙本寺を再興(後に妙顕寺に復称)、本応寺と対立した。この本応寺が改称して立本寺と号した[2]。なお、妙顕寺(妙本寺)と本応寺(立本寺)の分立については異説もあり、明徳4年(1393年)、日実が四条櫛笥の旧地に妙顕寺を再興し、本応寺(のち立本寺)と号したとする説もある[3]。
立本寺は天文5年(1536年)天文法華の乱で他の法華宗寺院とともに焼失し、堺に避難するが、天文11年(1542年)後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、法華宗寺院は京都へ戻ることとなった。立本寺は天文13年(1544年)新町三条に伽藍を再建した。その後文禄3年(1594年)、豊臣秀吉の命により、寺町今出川(上京区立本寺前町)にふたたび移転した。
宝永5年(1708年)宝永の大火で焼失後、現在の地に移転し、伽藍を再建した。
妙顕寺、妙覚寺、立本寺の三寺で「龍華の三具足(りゅうげのみつぐそく)」と呼ばれている。
現住は97世上田日瑞貫首(京都市妙円寺より晋山)。生師松ヶ崎法縁。
メールアドレス
gusogusan@yahoo.co.jp
URL
https://temple.nichiren.or.jp/5011029-ryuuhonji/
見所
<h3>石田三成の軍師・島左近のお墓がある。
吉野太夫の夫・灰屋紹益の墓もある</h3>
編集前:<h3>石田三成の軍師・島左近のお墓がある。
吉野太夫の夫・灰屋紹益の墓もある</h3>
アクセス
京福電鉄北野線「北野白梅町駅」から徒歩15分。
市バス「七本松仁和寺街道バス停」すぐ
編集前:京福電鉄北野線「北野白梅町駅」から徒歩15分。
市バス「七本松仁和寺街道バス停」すぐ
参拝時間
9:00~17:00(受付16:00)
編集前:9:00~16:30
参拝料
境内無料、本堂800円(要予約)
編集前:境内無料、本堂600円
文化財
法華経、法華経宝塔曼荼羅図(重要文化財)
本堂、祖師堂、鬼子母神堂、鐘楼、方丈、客殿、庫裡(市指定文化財)
編集前:法華経、法華経宝塔曼荼羅図(重要文化財)
本堂、祖師堂、鬼子母神堂、鐘楼、方丈、客殿、庫裡(市指定文化財)