ひがしむきかんのんじ
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東向観音寺ではいただけません
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東向観音寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2024年12月03日(火)
参拝:2024年11月吉日
京都市上京区にあるお寺です。
北野天満宮の参道西側にあります。
真言宗泉涌寺派の寺院で かつては北野天満宮の神宮寺でした。
洛陽三十三所観音霊場第31番札所です。
参道を歩く人はほぼ全員が北野天満宮への参拝で こちらに向かう方は いませんでした。
こちらも歴史のあるお寺ですのに。
山号は朝日山 宗旨宗派は真言宗泉涌寺派 寺格は準別格本山 ご本尊は十一面観音(秘仏) 創建年は延暦25年(806年) 開山は賢璟法師 開基は桓武天皇 藤原小黒麻呂 中興年は(神宮寺として)天暦元年(947年) 中興は最鎮です。
歴史については
延暦25年(806年) 大納言藤原小黒麻呂及び賢璟法師が桓武天皇の勅により創建した。
当初は朝日寺という名称だった。
天暦元年(947年)に菅原道真廟をこの地に移し 朝日寺の最鎮らが北野天満宮を建立して朝日寺を北野天満宮の神宮寺とし 応和元年(961年)には筑紫観世音寺より菅公自作の十一面観音を招来して新たに本尊とした。
応長元年(1311年) 無人如導宗師が筑紫の観世音寺に擬して朝日寺の名称を観世音寺または観音寺と改め 天満宮御本地仏・北野神宮寺または 奥之院とも称した。
境内は次第に整備され 当寺の本堂である観音堂が東を向いている東向観音の他にも 観音堂が西を向いている西向観音もあったが 数度の火災の後 西向観音は廃絶されてしまった。
北野天満宮の復興とあわせて慶長12年(1607年)に豊臣秀頼が片桐且元を奉行として本堂を再建している。
江戸時代に入ると一条家の祈願所となり 一条家出身で明治天皇の皇后となった昭憲皇太后は結婚する以前に当寺で勉学に励まれたといわれている。
白衣観音堂はその外観自体の撮影が諸事情により禁止されている。
とありました。
北野天満宮の参道西側にあります。
真言宗泉涌寺派の寺院で かつては北野天満宮の神宮寺でした。
洛陽三十三所観音霊場第31番札所です。
参道を歩く人はほぼ全員が北野天満宮への参拝で こちらに向かう方は いませんでした。
こちらも歴史のあるお寺ですのに。
山号は朝日山 宗旨宗派は真言宗泉涌寺派 寺格は準別格本山 ご本尊は十一面観音(秘仏) 創建年は延暦25年(806年) 開山は賢璟法師 開基は桓武天皇 藤原小黒麻呂 中興年は(神宮寺として)天暦元年(947年) 中興は最鎮です。
歴史については
延暦25年(806年) 大納言藤原小黒麻呂及び賢璟法師が桓武天皇の勅により創建した。
当初は朝日寺という名称だった。
天暦元年(947年)に菅原道真廟をこの地に移し 朝日寺の最鎮らが北野天満宮を建立して朝日寺を北野天満宮の神宮寺とし 応和元年(961年)には筑紫観世音寺より菅公自作の十一面観音を招来して新たに本尊とした。
応長元年(1311年) 無人如導宗師が筑紫の観世音寺に擬して朝日寺の名称を観世音寺または観音寺と改め 天満宮御本地仏・北野神宮寺または 奥之院とも称した。
境内は次第に整備され 当寺の本堂である観音堂が東を向いている東向観音の他にも 観音堂が西を向いている西向観音もあったが 数度の火災の後 西向観音は廃絶されてしまった。
北野天満宮の復興とあわせて慶長12年(1607年)に豊臣秀頼が片桐且元を奉行として本堂を再建している。
江戸時代に入ると一条家の祈願所となり 一条家出身で明治天皇の皇后となった昭憲皇太后は結婚する以前に当寺で勉学に励まれたといわれている。
白衣観音堂はその外観自体の撮影が諸事情により禁止されている。
とありました。
すてき
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