まんじゅじ
御朱印・神社お寺の検索サイト楽しみ方
萬壽寺(萬寿寺・万寿寺)ではいただけません
広告
萬壽寺(萬寿寺・万寿寺)のお参りの記録(1回目)
投稿日:2024年12月09日(月)
参拝:2024年12月吉日
京都市東山区にある東福寺の塔頭の1つです。
塔頭の中では最も離れた場所にあります。JR東福寺駅のそばです。
143号線に面しており かっこいい鐘楼門が目を引きます。
この鐘楼門はなぜか東福寺鐘楼とマップに出ていました。
その鐘楼門をくぐろうとしたら 一般公開はしていないとの看板がありました。
中から団体さんが出てきたので聞くと 特別に許可をもらっているとのことでした。
檀家さん?団体予約?何かしら拝観する手段はあるのかもしれません。
私は門から内側に入るのは控えることとしました。
ネット情報です。
山号は京城山とも九重山とも 寺格は東福寺塔頭・京都五山第五位 ご本尊は阿弥陀如来
創建年は永長元年(1096年) 開基は白河上皇です。
かつては天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺とともに京都五山の1つとして栄えた。
白河上皇の皇女である郁芳門院(媞子内親王)が永長元年(1096年)に数え年21歳で亡くなり それを悲しんだ白河上皇が皇女の菩提を弔うために六条内裏に六条御堂を建立した。
これが当寺の起源であるという。
この六条御堂の所在地について「万寿寺通高倉」とする資料が多いが 『都林泉名勝図会』には「南は六条通 北は六条坊門(現・五条通) 西は東洞院通 東は高倉通」とあり 「万寿寺通高倉」よりはやや南方である。
なお 上皇が出家して法皇となったのも皇女の死がきっかけであったという。
この御堂は 鎌倉時代には法然の弟子・湛空(1176年 - 1253年)が住し 湛空から十地覚空に受け継がれた。
この頃には天台系浄土教の寺であったと見られる。
正嘉年間(1257年 - 1259年) 十地覚空とその弟子の東山湛照が東福寺の円爾に帰依して臨済宗寺院となり 寺号も万寿寺(万寿禅寺)と改めた。
弘長元年(1261年)に開堂の儀が行われている。
塔頭の中では最も離れた場所にあります。JR東福寺駅のそばです。
143号線に面しており かっこいい鐘楼門が目を引きます。
この鐘楼門はなぜか東福寺鐘楼とマップに出ていました。
その鐘楼門をくぐろうとしたら 一般公開はしていないとの看板がありました。
中から団体さんが出てきたので聞くと 特別に許可をもらっているとのことでした。
檀家さん?団体予約?何かしら拝観する手段はあるのかもしれません。
私は門から内側に入るのは控えることとしました。
ネット情報です。
山号は京城山とも九重山とも 寺格は東福寺塔頭・京都五山第五位 ご本尊は阿弥陀如来
創建年は永長元年(1096年) 開基は白河上皇です。
かつては天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺とともに京都五山の1つとして栄えた。
白河上皇の皇女である郁芳門院(媞子内親王)が永長元年(1096年)に数え年21歳で亡くなり それを悲しんだ白河上皇が皇女の菩提を弔うために六条内裏に六条御堂を建立した。
これが当寺の起源であるという。
この六条御堂の所在地について「万寿寺通高倉」とする資料が多いが 『都林泉名勝図会』には「南は六条通 北は六条坊門(現・五条通) 西は東洞院通 東は高倉通」とあり 「万寿寺通高倉」よりはやや南方である。
なお 上皇が出家して法皇となったのも皇女の死がきっかけであったという。
この御堂は 鎌倉時代には法然の弟子・湛空(1176年 - 1253年)が住し 湛空から十地覚空に受け継がれた。
この頃には天台系浄土教の寺であったと見られる。
正嘉年間(1257年 - 1259年) 十地覚空とその弟子の東山湛照が東福寺の円爾に帰依して臨済宗寺院となり 寺号も万寿寺(万寿禅寺)と改めた。
弘長元年(1261年)に開堂の儀が行われている。
すてき
投稿者のプロフィール
くるくるきよせん2098投稿
ホトカミ見ました! で広がるご縁
ホトカミを見てお参りされた際は、もし話す機会があれば住職さんに、「ホトカミ見てお参りしました!」とお伝えください。
住職さんも、ホトカミを通じてお参りされる方がいるんだなぁと、ホトカミ無料公式登録して、情報を発信しようという気持ちになるかもしれませんし、
「ホトカミ見ました!」きっかけで豊かな会話が生まれたら、ホトカミ運営の私たちも嬉しいです。