らいごういん
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来迎院のお参りの記録(3回目)
投稿日:2024年12月22日(日)
参拝:2024年12月吉日
京都市東山区にあるお寺です。泉涌寺の塔頭の1つです。
3週間前にお参りしましたので 紅葉が美しかったです。
泉涌寺から西へ歩いてすぐの所にあります。正面に善能寺があります。
こちらは赤穂浪士で有名な大石内蔵助にゆかりのあるお寺でもあります。
住宅街からは離れているので 境内も参道もとても静かで落ち着いてお参りできます。
泉涌寺と塔頭は テレビで紹介された影響もあるのか 参拝者がとても多かったです。
お参りしたのは3週間前 紅葉がとてもきれいな日でした。
ネット情報です。
寺伝によれば 大同元年(806年)に空海が唐で感得した三宝荒神像を安置して来迎院を開創したとされる。
それから約400年後の建保6年(1218年) 泉涌寺の長老であった月翁智鏡律師が 藤原信房の帰依を受けて諸堂を整備し 泉涌寺の子院となったが 応仁2年(1468年)の応仁の乱の兵火により伽藍が焼失し荒廃した。
その後 天正2年(1574年) 中興の祖 舜甫明韶が織田信長の援助により再興 慶長2年(1597年)には前田利家が諸堂の再建を行い 徳川家からも援助を得て経済的な基盤も整い ようやく復興を果たした。
浅野の家臣である大石良雄(内蔵助)は赤穂を退去した後 外戚にあたる当時の泉涌寺長老兼来迎院住職であった卓巖和尚を頼り 来迎院の檀家となって寺請証文を受け山科に居を構え 多くの時間を来迎院で過ごしたと伝えられる。
大石良雄は来迎院に書院を興し また 境内に弘法大師が独鈷を用いて掘られて湧水したという伝承のある「独鈷水」が湧き出ることから茶室「含翆軒」(がんすいけん)「含翆庭」(がんすいてい 池泉回遊式庭園)を設け ここで茶会を催しながら同士である元赤穂藩の家臣達と討ち入りの密議をおこなったとされる。
3週間前にお参りしましたので 紅葉が美しかったです。
泉涌寺から西へ歩いてすぐの所にあります。正面に善能寺があります。
こちらは赤穂浪士で有名な大石内蔵助にゆかりのあるお寺でもあります。
住宅街からは離れているので 境内も参道もとても静かで落ち着いてお参りできます。
泉涌寺と塔頭は テレビで紹介された影響もあるのか 参拝者がとても多かったです。
お参りしたのは3週間前 紅葉がとてもきれいな日でした。
ネット情報です。
寺伝によれば 大同元年(806年)に空海が唐で感得した三宝荒神像を安置して来迎院を開創したとされる。
それから約400年後の建保6年(1218年) 泉涌寺の長老であった月翁智鏡律師が 藤原信房の帰依を受けて諸堂を整備し 泉涌寺の子院となったが 応仁2年(1468年)の応仁の乱の兵火により伽藍が焼失し荒廃した。
その後 天正2年(1574年) 中興の祖 舜甫明韶が織田信長の援助により再興 慶長2年(1597年)には前田利家が諸堂の再建を行い 徳川家からも援助を得て経済的な基盤も整い ようやく復興を果たした。
浅野の家臣である大石良雄(内蔵助)は赤穂を退去した後 外戚にあたる当時の泉涌寺長老兼来迎院住職であった卓巖和尚を頼り 来迎院の檀家となって寺請証文を受け山科に居を構え 多くの時間を来迎院で過ごしたと伝えられる。
大石良雄は来迎院に書院を興し また 境内に弘法大師が独鈷を用いて掘られて湧水したという伝承のある「独鈷水」が湧き出ることから茶室「含翆軒」(がんすいけん)「含翆庭」(がんすいてい 池泉回遊式庭園)を設け ここで茶会を催しながら同士である元赤穂藩の家臣達と討ち入りの密議をおこなったとされる。
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