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2025年10月24日(金) 01時37分 bysoo_cyan
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曹洞宗
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しんしょうぜんじあと
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明治のはじめ頃までは、現在のバプテスト病院の所に一宇の御堂があった。それが雲居山心性禅寺で、この寺は今から二百五十五年程前の、宝暦九年、(1759)に禅圭という弟子が師の宝厳禅尼の遺志をついで、独力建立したものである。この僧は鷹ケ峰源光庵五世卍海和尚の弟子であった。 元来この地は寛永五年(1628)に西加茂にあった日蓮宗の心性禅寺が、この地に移され、堂の東には鐘楼、塔頭あり(禅宗の寺)末寺が六軒もあって栄えたが建立後四十年もたたない寛文六年(1666)幕府の宗停止のふれがあり取り壊された。 この跡は寺号だけが残って九十四年間荒野原となっていた。 この地を 照高院家より譲り受けた禅圭は、宝厳禅尼亡き後も托鉢する等並々ない辛苦のすえ、やっと本堂、蔵裏を建て、井戸やひょうたん池まで掘った。 しかし地元とのつながりがなかったため経済的に窮迫し、明治の世には無住職となり、明治六年長谷川知事扱いにより廃墟となった。この地は市内が一望できる風光明媚な景勝の地で、歌人小沢蘆庵は殊のほかこの寺を愛し、太秦の幽居から岡崎広道に移った寛政四年(1792)以降しばしば状を曳いたのである。 蘆庵が数多くの白川心性寺の歌を詠んでいるように生前から墓地をここと決めていた、蘆庵が享和元年(1801)岡崎図南亭で亡くなるや、心性寺に葬られたのである。この墓地が絶景の地であったことは先の病院増築に際し、門人田山敬儀(ユキノリ)の墓誌が発掘せられ、それに『蘆庵翁裏側に葬る』と刻まれていたことによって確認された。(小沢蘆庵墓)の五文字は光格天皇(御生母蓮上院)の皇兄妙法院宮眞仁法親王(御生母陽乗院)の筆である。この宮は蘆庵の高弟である、小川布淑(ノブヨシ)前波黙軒 田山敬儀 小野勝義と共に蘆庵門下四天王であった。またこの心性寺へ蘆庵を心の師とした蓮月が富岡鉄斎を伴って一時世を避けた事は有名な話である。 由緒ある寺のその後の行方は、一件の書類と本尊釈迦牟尼仏の坐像だけが鷹ヶ峰源光庵に合附されていることがわかった。
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雲居山
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禅圭
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宝暦九年(1759)
