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2026年04月04日(土) 00時01分 bysoo_cyan

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明智明神
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ご由緒
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天正十年(一五八二)六月二日、明智光秀は本能寺に宿泊していた主君・織田信長を急襲し、自害させた。しかし光秀は、備中高松城から引き上げてきた羽柴秀吉と、十三日に山崎で戦って敗れ、わずかな家臣とともに近江の坂本城をめざして逃れる。そしてその途中、小栗栖の竹藪で地元の農民に襲われて重症を負い、自害して家臣に首を打たせたといわれている。
光秀の首は家臣によって隠されたといわれるが、吉田兼見という公家が記した日記「兼見卿記」によると、光秀の首は十五日までに発見されている。十八日からは、粟田口で重臣の首とともに晒された。晒されたのは数日で、二十二日・二十三日には近くに埋め、塚を築いたことも記されている。
実際、「雍州府志」や「京都名所図会」など、江戸時代の京都について記された地誌類には、その塚が蹴上付近にあり、三条通北側の人家の裏側にあると記されている。多くの書物に記されていることから、当時よく知られた名所であったことがうかがえる。
その後、江戸時代中期の安永〜天明初年頃に、蹴上の塚にあった石塔婆がこの地に移されてきた。以来、この地が明智光秀を弔う地として知られるようになり、光秀の首も埋められたと伝えられている。
また明智光秀を弔う場所は、ここ以外にも、小栗栖の明智藪・胴塚がある。
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明智光秀
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明智光秀公
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