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2025年10月20日(月) 07時58分 bysoo_cyan

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常念寺は慶長十年(1605)第一世・傳譽上人が当時「西福寺」と呼ばれていた観音堂の本尊・檀家を移し、浄土宗知恩院の末寺として常念寺を創建されたことが書かれており、現在の常念寺の開基であります。『過去霊名記』
第二世・真譽上人元和七年(1621)によって寺院伽藍の整備が行われ、現在の御本尊の阿弥陀さまをお迎えしたことを、第七世・高譽上人代に長老たちの話を聞いて書き取ったものだと但し書きがあります。
第四世・賢譽上人延宝三年(1672)住職となり常念寺再興に大変な努力をされ、伽藍の修復整備をされました。
明治期の『紀伊郡寺院明細帳』によると、常念寺は619坪の境内地を有し、本堂、観音堂、庫裏・土蔵などがありました。当初の住職は第十九世・友譽上人、檀家数は315軒にのぼり、当時の水垂村では最も規模の大きな寺院で、大下津村の地福寺は当寺の末寺にあたります。
水垂は桂川右岸の堤防上に位置するため、しばしば水害を受けてきました。とくに明治十八年には三か所で合わせて150mも破堤し27戸が流失。住民は常念寺へ避難したといいます。この災害復興と民家の再建に尽力した勝山弥兵の顕彰碑が墓地に建てられています。このような水禍の根絶を目的に内務省が明治三十年代に淀川改良工事の一環として桂川の拡幅工事を実施しました。この際、引提事業により、大下津村とともに全村が新堤防上に移転を余儀なくされました。
それから約100年、再び桂川の水害危険度を下げるための拡幅工事が実施され、水垂は再び全面移転に至りました。
当寺は明治以来の古い建物であったため、1995年の兵庫南部地震による被害を受け、建て替えの時期を迎える状況でした。しかし、仏様のご縁により平成22年5月(2010)現在の地へ落慶するに至りました。