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2025年12月02日(火) 00時24分 bysoo_cyan
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さいこうじ
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『京都府山科町誌』によれば、山号が「佛頂山」といい、その創建については定かではないが、閑公和尚の開基とされています。もとは「御所の内」にあったのを、元禄年間に寂夢和尚がお寺を中興、堂舎を今の地に移して再建したといいます。『山科町誌』にはありませんが、慶長3年(1598)頃の創建ではないかとも言われています。 ご本尊は阿弥陀佛で、ほかに済深(信)法親王(霊元天皇第一皇子 勧修寺長吏)及び新上西門院(霊元天皇中宮)の御位牌を安置しています。また本堂の傍の小堂には地蔵尊が安置されています。 また、『史料京都の歴史⑪山科区』によれば、「西向寺は勧修寺御所ノ内町に位置する浄土宗知恩院派の寺院である。縁起等は明らかではないが、もとは勧修寺境内に建てられていた寺院と考えられる。文書(西向寺から提出された文書)中、注目すベきものは元禄6年の掟書と安永2年の掟の改正、追加である。元禄6年の掟書は西向寺住持職の相続は鎮西派の僧により行われるべきことなど5ヵ条が定められており、安永2年の改正は その住持職の相続を鎮西・西山両派より徳のある僧をもってなすべきと改めている。また、前記2通の掟書には勧修寺坊官の二松、岡本といった人物が署名しており、当寺と勧修寺との密接な関係をうかがわせている。」とあります。 西向寺で祀られている上記2つの位牌に関しては、1680年代の「小倉事件」で、一宮(後の済深法親王)が出家して勧修寺門跡となった経緯と関係があり、西向寺はその門跡とその母、小倉実起の娘(中納言典侍・実名不詳)の位牌を守っています。 また傍らの「地蔵尊」は、平安時代末期の作といわれ「安産地蔵」とも呼ばれています。元は勧修寺境内にあった地蔵堂の中で祀られていた地蔵尊と考えられています。また、この地蔵尊については、『山階宮三代』に、山階宮晃親王とのエピソードがあったも語られている。その横には、地蔵尊像の中にあった胎内仏も祀られています。
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阿弥陀如来
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佛頂山
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東光院
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慶長3年(1598)頃?
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閑公和尚
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寂夢和尚
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元禄年間
