かじゅうじ|真言宗山階派大本山|亀甲山
勧修寺の編集履歴
宗派
真言宗山階派大本山
編集前:真言宗山階派
ご由緒
『勧修寺縁起』等によれば、当寺は昌泰3年(900年)、醍醐天皇が若くして死去した生母藤原胤子の追善のため、胤子の祖父にあたる宮道弥益(みやじいやます)の邸宅跡を寺に改めたもので、胤子の同母兄弟である右大臣藤原定方に命じて造立させたという。胤子の父(醍醐の外祖父)藤原高藤の諡号(しごう)をとって勧修寺と号した。開山は東大寺出身の法相宗の僧である承俊律師。代々法親王が入寺する宮門跡寺院として栄えたが、1470年(文明2年)兵火で焼失して衰退し、江戸時代に入って徳川氏と皇室の援助により復興された。
宮道弥益は山城国宇治郡(現・京都市山科区)の大領(郡司)であった。弥益の娘・宮道列子は藤原北家の流れを汲む内大臣藤原高藤に嫁した。彼らの間に生まれたのが宇多天皇女御・醍醐天皇生母となった胤子である。高藤の流れを汲む家系を、寺名にちなんで勧修寺流という。なお、高藤と列子のロマンスについて『今昔物語集』に説話が残されている(後述)。
創建年代については上述の通り昌泰3年とするのが一般的だが、異説もある。勧修寺は延喜5年(905年)、定額寺に列せられているが、この時の太政官符には「贈皇后(胤子)が生前に建立した」旨の記述があり、これに従えば、胤子の没した寛平8年(896年)以前の創建となる。
前述の通り、勧修寺は延喜5年(905年)に定額寺に列せられ、皇室と藤原氏の援助を受けて栄えた。天永元年(1110年)、7世長吏となった寛信(1084 - 1153)は藤原高藤8世の孫・藤原為房の子で、東寺長者、東大寺別当などを歴任した人物である。「勧修寺法務」とも称された寛信は真言密教の事相に通じ、真言宗小野流の一派である勧修寺流の祖とされている。
編集前:『勧修寺縁起』等によれば、当寺は昌泰3年(900年)、醍醐天皇が若くして死去した生母藤原胤子の追善のため、胤子の祖父にあたる宮道弥益(みやじいやます)の邸宅跡を寺に改めたもので、胤子の同母兄弟である右大臣藤原定方に命じて造立させたという。胤子の父(醍醐の外祖父)藤原高藤の諡号(しごう)をとって勧修寺と号した。開山は東大寺出身の法相宗の僧である承俊律師。代々法親王が入寺する宮門跡寺院として栄えたが、1470年(文明2年)兵火で焼失して衰退し、江戸時代に入って徳川氏と皇室の援助により復興された。
宮道弥益は山城国宇治郡(現・京都市山科区)の大領(郡司)であった。弥益の娘・宮道列子は藤原北家の流れを汲む内大臣藤原高藤に嫁した。彼らの間に生まれたのが宇多天皇女御・醍醐天皇生母となった胤子である。高藤の流れを汲む家系を、寺名にちなんで勧修寺流という。なお、高藤と列子のロマンスについて『今昔物語集』に説話が残されている(後述)。
創建年代については上述の通り昌泰3年とするのが一般的だが、異説もある。勧修寺は延喜5年(905年)、定額寺に列せられているが、この時の太政官符には「贈皇后(胤子)が生前に建立した」旨の記述があり、これに従えば、胤子の没した寛平8年(896年)以前の創建となる。
前述の通り、勧修寺は延喜5年(905年)に定額寺に列せられ、皇室と藤原氏の援助を受けて栄えた。天永元年(1110年)、7世長吏となった寛信(1084 - 1153)は藤原高藤8世の孫・藤原為房の子で、東寺長者、東大寺別当などを歴任した人物である。「勧修寺法務」とも称された寛信は真言密教の事相に通じ、真言宗小野流の一派である勧修寺流の祖とされている。
山号
亀甲山
創立
900年(昌泰3年)
創始者/開山・開基
醍醐天皇・承俊律師