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2025年09月25日(木) 22時50分 bysoo_cyan
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広誠院
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廣誠院
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広誠院
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廣誠院は、二条木屋町の高瀬側の基点、一之船入の南側に位置している。この地は、もと長州藩邸があったところで、一之船入を挟んで北側は旧角倉了以邸、高瀬側の東側は角倉の別邸であった。廣誠院については、中村昌生・矢ヶ崎善太郎両氏によるによる詳細な論説があり(『京の名邸宅』宅中村昌生編・毎日新聞社、1999年11月他)、まずはこれに従って沿革を記す。 明治28年『新撰京都古今全図』(田中治兵衛編)には廣誠院の敷地は「伊集院邸」となっている。 この「伊集院邸」は、建築や庭園、茶の湯に造詣が深かった伊集院兼常の邸宅で、その建設時期は明治25年頃とされ、現在の廣誠院の主体をなす書院や茶室、庭園などは兼常による造営である。尚、兼常は明治29年~同32年まで、現在の市田・對龍山荘の地を所有しており、この地から南禅寺へ移っている。 廣誠院の建築はいわゆる寺院のそれではなく、数奇屋風の座敷(書院)と茶室からなる。庭園には高瀬川から引き込まれた大きくゆったりとした流れが敷地内をほぼ南北に縦断し、やがてふたたび高瀬川に流れ込こむ。石組みで護岸され、途中に石橋が渡されている。建築はその流れに沿うように雁行し、一部(茶室部分)は流れの上を跨ぐ構成である。この建築と庭園の主要部分が伊集院兼常によって造営されたものである可能性が夙に指摘されていた。 伊集院が木屋町二条の別邸を手放した後、この地は明治29年(1896)7月滋賀県の下郷傳平の所有となり、同35年(1902)4月には廣瀬満正が所有した。満正ははじめ別邸として利用していたが、晩年は常の生活の場となり、昭和3年に死去後夫人う多(歌子)は私財を投じ財団法人廣誠会(理事長山崎益洲)とした後、昭和27年に満正の院号をとって宗教法人廣誠院(山号は保水山)に改組、臨済宗の単立寺院として現在にいたっている。
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地下鉄「京都市市役所駅」下車 徒歩1分 市バス3・4・10・15・17・32・37・51・59・205・100系統「京都市役所前下車」徒歩5分
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通常非公開(特別公開あり)
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昭和二十七年
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昭和25年
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橋本峩山
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伊集院兼常 初祖:橋本峩山
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