やくしいん|黄檗宗
薬師院のお参りの記録一覧
黄檗宗 医徳山 薬師院さまに参拝しました。
10/8は年に一度の御開扉と前日に知り、薬師如来さまに呼ばれたような気がして参拝致しました。
こちらのお薬師さまは、皆さんご投稿の通り、
延暦元年(782) 伝教大師 最澄さまが16歳の時に、一刀三礼にて彫り上げた仏像で、疫病万延で苦しんだ寛喜2年(1230) 「我が前に来れば一切の病苦を取り除こう。来ぬか 来ぬか」と、薬師院の住職の夢に、薬師如来さまからお告げがあったとのこと。
それ以来、薬師院は「こぬか薬師」と呼ばれるようになったそうな。
小さな御本堂前には、ご用意下さったパイプ椅子に、薬師如来さまのご縁を頂かれに、たくさんの参拝の方々。
ご案内の女性の方に、親切に席へ勧められて、お経典もお配り頂き、読経致しました。
お導師さまの、響き渡る心地良いお声の読経に合わせて、一心に息子の持病平癒を祈願しました。
法要後、ご住職さまは参拝者にご丁寧にご挨拶下さり、こちらの御本尊さまの説明をして下さいました。
「正面の小さな御厨子の中に、僅か、私の親指ほどの小さな小さな御本尊薬師如来さまがいらっしゃいます。伝教大師 最澄さまが一刀三礼し七体彫られた。現存しているのは二体。そのうちの一体がこちらの仏さまで、もう一体は、比叡山延暦寺にいらっしゃいます。
また、この小さな御厨子の中には、薬師如来さまの両脇に日光、月光菩薩、そして、周りには仏さまをお護りするように、十二神将がいらっしゃいます。今日は年に一度の御開扉。御本堂に上がられて、ゆっくりと仏さまにご縁を頂かれて下さい。」
と仰って下さいました。
また、ご住職さまは続けて御本尊さまに向かって左側にいらっしゃる、20〜30センチ丈の薬師如来さまについてご説明下さいました。
「皆さんこちらの薬師如来さまを御本尊さまと間違われて拝まれる方が多いのですがね。
こちらの御本尊さまは、数年前のある日、『薬師院さまの仏像がネットで販売されていますよ』という電話が突然かかってきたのです。
まさか盗難にあったかと、慌てて御本堂を確認しましたが、ちゃんと御厨子、御本尊さまは無事ですし、不思議に思いながらも、ネットを検索して確認。確かに歴史深いその薬師如来さまに、何か不思議なご縁を感じて、その仏像を落札しました。
電話にてご一報を下さった方は、奈良の博物館の先生で、その方が是非、その薬師如来さまを見せて頂きたいとのことで、来られて見て頂くと、仏像の裏に、薬師院の所番地が記載されてあって、確かに薬師院の仏様であっただろうことがわかったのでございます。
本当に不思議なご縁で、こちらにお戻りになった、有難い薬師如来さまなんです」と。
私が聞き違えてなければ😅そのようにお話し下さいました。🙂↕️🙏🏻
お話を伺って、まるでその薬師如来さまが、本来、いるべき場所、薬師院さまに「帰りたい」との並々ならぬ思いが、奈良の先生を通じて、ご住職さまに届き、無事お戻りになられたような、そんな不思議な有難い出来事に感じました。
順番に並んで、御本堂に上がらせて頂き、先ずは無事お戻りなられた薬師如来さまに参拝。
台座を含めても、30センチくらいでしょうか?
穏やかなお顔立ちでいらっしゃいました。
お戻りになられて、良かったですね。と、手を合わせました。
それから、御本尊さまに。
ご住職さまが、仰られた通り、小さな御厨子の中に、親指丈程の小さな小さな御本尊さま。
両脇には日光、月光菩薩さま。
周りには十二神将さまでぎっしり。堂内も薄暗く、また御厨子内全ての仏像も黒くて、お顔一つ一つがハッキリとは見てとれませんでしたが、とても歴史を感じ、小さな御厨子の扉の内側には、綺麗な絵が施されていたように思います。
息子の病気平癒を一心に御本尊さまにお願い申し上げ、後の方々も並んでいらっしゃいますので、早々に御本堂を出て、御朱印を頂きに参りました。
病気平癒、健康長寿、家内安全、その他たくさんの願いを薬師如来さまに託して、皆さん一心に祈願されていらっしゃいました。
年に一度の有難い御開扉。
心が温まる、有難い良い御法要でございました。🙂↕️🙏🏻
信長由縁 「福こぬか寿こぬか」
京都市中京区にあるお寺です。
二条城から東に数分歩いたところにあります。
のぼりが目立つのですぐ分かりました。
とはいえ 駐車場の中にぽつんと建っている感じがします。
御朱印は庫裏のインターホンを押していただきます。
ご住職の奥様と思われる方が対応してくださったのですが 薬師院の歴史についてていねいにお話くださいました。
山号は医徳山 宗派は黄檗宗 ご本尊は薬師如来 別称こぬか薬師です。
ご本尊は10月8日だけ御開帳だそうです。
ですが 皆様ご本尊をお間違えになるのだそうです。
それは ご本尊がとても小さいからです。
ぜひ 御開帳に立ち会いたいものです。
由緒については
延暦元年(782年) 最澄は16歳の時に自ら一刀三礼で薬師如来像7体を彫り上げると その内の1体を美濃国横倉に医徳堂を設けてそこに安置したという。
この医徳堂の薬師如来像が当院の本尊であるという。
後に医徳堂から薬師院に名を改めている。
寛喜2年(1230年)に全国的に疫病が流行した際 薬師院の住職の夢枕に「我が前に来れば一切の病苦を取り除こう。来ぬか 来ぬか」と薬師如来のお告げがあったという。
以後人々が当院を訪れて祈願すると病気が平癒したことから 当院は「来ぬか薬師」という名で呼ばれるようになったという。
戦国時代に上洛を果たした織田信長により 当院は美濃国から当地に移転されたという。
その後 衰微していたところ元禄元年(1688年)に黄檗宗の鉄面寂錬禅師により再興される。
元治元年(1864年)7月19日に起きた禁門の変と それによって発生したどんどん焼けにより全焼するが1889年(明治22年)に再建された。
しかし 境内は大幅に縮小してしまった。
とありました。
のぼりが駐車場に誘導してくれます
由緒書
お地蔵様ではなさそうな
こぬか薬師如来の石柱
縁起
このお堂が薬師院
医は難しい方の字でした
扁額
京都一二薬師霊場 3つめのお参りは、10番大福寺より徒歩15分ぐらいの所にある黄檗宗の寺院、薬師院。
ご本尊は薬師如来。伝教大師最澄が16歳の時に一刀三礼で彫刻された薬師仏七体のうちの一体。延暦寺根本中堂に祀られてる薬師像と同形で現存するものでは薬師院と二体のみだそうです。
10月には特別公開されるようです。
境内には、「こぬか薬師」とあり、何だろう?間違えたのかな?と思っていたら、鎌倉時代に疫病が全国に広がった時、住職の夢に薬師如来が現れて、「我が前に来れば一切の病苦を取り除こう。来ぬか、来ぬか」とのお告げがあり、その後皆病気治癒したので、こぬか薬師とよばれることになったそうです。(*^-^*)
本堂
御朱印 本堂で対応中で待っていようとしたら、書き置きがありいただきました。
「来ぬか、来ぬか」と薬師様のお声が聞こえてきそうな御朱印に感じます。
京都府のおすすめ2選🍁
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