ぎょうがんじ(こうどう)
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行願寺(革堂)ではいただけません
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行願寺(革堂)のお参りの記録(1回目)
投稿日:2022年01月06日(木)
参拝:2020年12月吉日
行願寺(ぎょうがんじ)は京都府京都市中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町にある天台宗の寺院。山号は霊麀山(れいゆうざん)。通称は「革堂(こうどう)」。本尊は千手観音菩薩。西国三十三所観音霊場第19番。なお、西国三十三所では唯一の尼寺となっている。
平安時代後期の1004年に行円上人により一乗小川(上京区)に創建された。上人は子を孕んだ母鹿を射止めてしまったことを悔やみ、常にその皮を纏って鹿を憐れんだことから「皮聖(かわのひじり)」と呼ばれ、当寺も「革堂(こうどう)」と呼ばれるようになったとのこと。以後、民衆からの篤い信仰を受け、町堂として大いに栄えたが、度々の災禍により寺地を転々とし、江戸時代中期1708年の大火の後、
当地に移された。現在の本堂は1815年に建立されている。
当寺は、京都市営地下鉄烏丸線・丸太町駅の東方、道のり800mほどの市街地、京都御苑の東南端近くにある。寺町通りの商店街の一角のような外観で、境内自体は広くはなくコンパクトサイズ。敷地には建物がぎっしり建っている感じ。本堂はそれなりのサイズがあり、200年の歴史を感じる風格のあるもの。まさに京都の街中にあって、庶民の信仰に支え続けられてきた感じがする。
今回は、西国三十三カ所観音霊場の札所ということで参拝することに。参拝時は平日の午前中、自分以外にも数人参拝者が訪れていた。
平安時代後期の1004年に行円上人により一乗小川(上京区)に創建された。上人は子を孕んだ母鹿を射止めてしまったことを悔やみ、常にその皮を纏って鹿を憐れんだことから「皮聖(かわのひじり)」と呼ばれ、当寺も「革堂(こうどう)」と呼ばれるようになったとのこと。以後、民衆からの篤い信仰を受け、町堂として大いに栄えたが、度々の災禍により寺地を転々とし、江戸時代中期1708年の大火の後、
当地に移された。現在の本堂は1815年に建立されている。
当寺は、京都市営地下鉄烏丸線・丸太町駅の東方、道のり800mほどの市街地、京都御苑の東南端近くにある。寺町通りの商店街の一角のような外観で、境内自体は広くはなくコンパクトサイズ。敷地には建物がぎっしり建っている感じ。本堂はそれなりのサイズがあり、200年の歴史を感じる風格のあるもの。まさに京都の街中にあって、庶民の信仰に支え続けられてきた感じがする。
今回は、西国三十三カ所観音霊場の札所ということで参拝することに。参拝時は平日の午前中、自分以外にも数人参拝者が訪れていた。
境内西端入口にある<山門>と<寺号標>。
西から来た竹屋町通りは当寺に突き当たってから南に向かう。(変な場所に信号がある理由の解説デス...(^_^;))
西から来た竹屋町通りは当寺に突き当たってから南に向かう。(変な場所に信号がある理由の解説デス...(^_^;))
山門をくぐろうとすると、突き当りに<本堂>が見える。
山門をくぐってすぐ左側には<延命地蔵菩薩>と<天道大日如来>の社がある。その右奥が<水屋>。
<本堂>全景。江戸時代後期の1815年の再建。
<本堂>正面。ごちゃごちゃとして年季の入ったところが、歴史ある西国三十三観音霊場の札所らしくて良い!(o^―^o)
本堂への階段右脇にひっそりと建っている<寺守社>。
なんだか由緒がありそうな石碑。
水屋の右隣に建つ<愛染堂>。
愛染堂の右隣に建つ<寿老人神堂>。当寺最古の安土桃山時代の建立。
本堂前から左方向を見て、突き当りに建つ<鎮宅霊符神堂>。鎮宅霊符神(北辰妙見菩薩)を祀る。
鎮宅霊符神堂の左隣に建つ<鐘楼>。1804年の再建。
金堂の左手に立つ小祠群と石碑群。
こちらは<七福神像>。
最後にもう一度戻って<本堂>正面。この雰囲気は自分は好き!(^▽^)/
すてき
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惣一郎1269投稿
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