正伝永源院は、「正伝院」と「永源庵」の二つの歴史を持っています。
鎌倉時代中期、文永年間(1264-1275)において、大覚禅師の法嗣(はっす)である中国僧義翁紹仁勅謚普覚禅師によって、正伝院 (祇園花見小路四条下ル) は開山となりました。
南北朝時代、正平年間(1346-1370)、永源庵は、建仁寺39世・鉄庵道生の法嗣である無涯仁浩禅師によって開山となりました。当初は、東山清水坂鷲峯下に永源庵を構えます。延文年中備後守護であった細川頼有が、戦場に赴かんとした際に、同庵の門前にて無涯禅師に会い、馬上から問法した事が縁で、師檀の関係ができます。以後、細川家が同庵住持に対する帰依は深まり、同家から同庵に出家、住職になるものさえ出てきます。のちに応安五年(1372)において、建仁寺塔頭に列しました。
室町時代年間(1398年〜)、永源庵は現在地に移ります。
天文年間(1532-1555)の京都での戦乱以来、正伝院は荒廃いたします。
江戸時代(1618年)、正伝院は織田有楽斎により再興されました。この時、隠居所と茶室「如庵」が建てられます。
有楽斎は中興の祖となります。のち有楽斎の没後(1622年)、隠居所は正伝院に寄進されました。
明治時代(1868年)、神仏分離令後の廃仏毀釈後、建仁寺塔頭の多くが廃されました。無住となっていた永源庵は堂宇のみを残すのみとなります。一方、1872年において、京都府による窮民産業所設立のため、正伝院は境内の建物を放棄し、寺号のみを残して替地となった旧永源庵の現在地に移ります。1873年において、永源庵が廃寺となりますが、「永源」の名が消える事を憂いた細川侯爵によって、正伝院と永源庵は合併し、寺号を正伝永源庵と改めました。この時、茶室「如庵」は祇園町有志に払い下げられます。
1909年(もしくは1908年)、正伝院の旧地の伽藍(書院、庫裏、総門、唐門、二重閣門、長好閣)は売却され、移転となりました。この時、書院、茶室「如庵」、露地も東京に移される事になります。
昭和年間(1962年)、織田有樂斎、その夫人、娘、孫の墓は、正伝院旧地より現在地に移されました。
永源庵は無涯仁浩(建仁第39世 1294〜1359)が開山であり清水坂鷲峯下に同庵を構えます。
当時の備後守護であった細川頼有公が同庵の門前で無涯に会い馬上から門法したことが縁で師壇の関係ができた。以後、細川家が同門住持に対する帰依は深まり同家から同庵に出家したり住職になるものさえ出ます。
1372年、永源庵はここで建仁寺塔頭に列し、以後細川家の庇護は明治迄続き、現在の客殿は細川三斎公により再建され、その時の住持は、やはり細川家より出家した、九岩中達(建仁第300世)でした。 |