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かんだいじんじんじゃ

菅大臣神社の御由緒・歴史
京都府 四条(京都市営)駅

ご祭神菅原道真公
尼神(菅公嫡女・衍子の方)
大己貴命
ご由緒

社寺は天神さま、すなわち平安朝初期、道真公の邸および「菅家廊下」と称する学問所のあったところであり、また道真公の誕生の地と伝えられ境内には産湯の井戸も保存されている。また道真公左遷に当り、「東風吹かばにほひおこせよ梅の花 主なしとて春なわすれそ」と詠まれ、その後梅の一枝が一夜にして筑紫大宰府に飛んだという「飛梅発祥の地」でもある。
 道真公は承和12年(845)6月25日に生まれ、貞観9年(867)23歳で菅家廊下に入り、父・是善卿の没後、元慶4年(880)36歳の時にこれを主宰された。その後延喜元年(901)57歳に大宰府へ左遷までの三十数年間を当地で過ごされ、延喜3年2月25日(903)筑紫でその生涯を閉じられた。
 神社創立年代は不詳であるが、「平家物語」巻第一内裏炎上の中に「・・・安元三年(1177)四月廿八日・・・・・具平親王の千種殿、或いは北野天神の紅梅殿・・・・・・昔今の名所三十余ヶ処、公卿の家だにも十六ヶ処焼にけり・・・・・・」とあるのを見れば道真公の没後、間もなく神社が創立されたものと思われる。中世までは八町々天神とも呼ばれ、広大な神域をもっていたが、鎌倉時代より南北朝にかけて出来上がった「拾芥抄」によれば、この頃には菅大臣神社と北菅大臣神社とに二分され、当社を天神御所紅または白梅殿社、北を紅梅殿社と称している。
 洛北の曼殊院是算上人は菅家にゆかりがあり、観応元年(1350)慈昭僧正の時より代々北野別当職に補せられ近郊の天満宮を管轄されていた。当神社は兼帯所になっていたが、京都の中心部にあるため度重なる兵火に罹り、応仁の乱後は一時社領断絶している。当神社古文書によると、慶長19年(1613)曼殊院宮良恕法親王により再興され、元和3年(1617)所司代は社地を決め、今日に至っている。
 御祭神のうち大己貴命は当時日吉大社より勧請している。なお尼神は菅公の嫡女で、宇多天皇の女御に入り、天皇御出家ののちに尼となられ寛平の女御といわれた衍子の方である。道真公は右大臣であったため菅大臣(すがのおとど)と呼ばれたのであるが慶長再興時の祭文には「菅大臣尼神」の神号が見えている。その後寛永4年(1627)、寛延3年(1750)良啓法親王などにより社殿の拡張・復興がなされているが天明の大火(1788)、元治の兵乱(1864)に罹り社殿等ことごとく焼失する。
 現在の本殿は文久3年度(1863)の下鴨神社式年遷宮の旧殿を明治2年(1869)に当地に移築したもので、典型的な流造の社殿として文化財価値が非常に高いものである。その後、幣殿を明治34年(1901)に改築し、本殿幣殿合わせていわゆる八棟造をなしている。神仏分離により菅大臣神社と称し、旧府社である。
 摂社・新柿本社(いまかきのもとしゃ)は歌聖柿本人麻呂公を祀り、京洛歌人の信仰篤く元治の兵火後は孝明天皇の御下賜金にて再興されたものである。

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