うらじんじゃ(うらしまじんじゃ)
宇良神社(浦嶋神社)の御由緒・歴史
ご祭神 | 《主祭神》 浦島子(うらのしまこ) 《配祀神》 月読命(つくよみのみこと) 祓戸大神(はらえどのおおかみ) | |
---|---|---|
創建時代 | 天長二年(825年)7月22日 | |
創始者 | 淳和天皇(小野篁を派遣) | |
ご由緒 | 「昔々浦嶋は 助けた亀に連れられて 竜宮城へ来て見れば 絵にもかけない美しさ」 この歌は、文部省唱歌「浦嶋太郎」であり、尋常小学校唱歌第二学年用教科書として、明治44年6月28日に刊行された。これは全5小節の内の第1小節である。 浦嶋神社は宇良神社ともよばれ、醍醐天皇の延長5年(927)「延喜式神名帳」所載によると『宇良神社(うらのかむやしろ)』と記されている式内社。創祀年代は淳和天皇の天長2年(825)、浦嶋子(うらしまこ)を筒川大明神として祀る。その大祖は月讀命の子孫で当地の領主、日下部首(くさかべのおびと)等の先祖であると伝わる。 伝承によると、浦嶋子は雄略天皇22年(478)7月7日美婦に誘われ常世の国へ行き、その後三百有余年を経て淳和天皇の天長2年(825)に帰ってきた。常世の国に住んでいた年数は347年間で、淳和天皇はこの話を聞き浦嶋子を筒川大明神と名付け、小野篁(おののたかむら/802~853、官吏・文人、遣隋使を務めた小野妹子の末裔)を勅旨として派遣し社殿が造営された。 遷宮の際には神事能が催され、そのつど領主の格別の保護が見られた。暦応二年(1339)には征夷大将軍 足利尊氏が来社し幣帛、神馬、神酒を奉納するなど、古代より当地域一帯に留まらず広域に渡り崇敬を集めている。 浦嶋子の子孫に当たる日下部氏については、『新撰姓氏録』「弘仁6年(815)」の和泉皇別の条に「日下部宿禰同祖、彦座命之後也」とみえる。彦座命は第9代開化天皇(紀元前157~98)の子、従って日下部首は開化天皇の後裔氏族で、その大祖は月讀命(浦嶋神社の相殿神)の子孫で当地の領主である。 | |
歴史 | 歴史[編集] 社伝によると、創祀年代は平安時代、淳和天皇の825年(天長2年)7月22日とされ、浦嶋子を筒川大明神として祀るのが始めであると伝えられる[1]。宇良神社とも呼ばれ、延長5年(927年)「延喜式神名帳」所載によると『宇良神社(うらのかむやしろ)』と記されている[1]。伝承によると、淳和天皇は、「浦嶋子が、雄略天皇22年(478年)7月7日美婦に誘われ常世の国へ行き、347年を経て、天長2年(825年)に戻った」との話を聞き、浦嶋子を筒川大明神と名付け、小野篁を勅旨として社殿が造営されたとされる[1]。 ^ a b c “由緒”. 浦嶋神社公式. 2022年6月30日閲...Wikipediaで続きを読む | |
引用元情報 | 「浦嶋神社」『ウィキペディア日本語版』。 この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E6%B5%A6%E5%B6%8B%E7%A5%9E%E7%A4%BE&oldid=98173411 |
京都府のおすすめ2選🍁
歴史の写真一覧
京都府のおすすめ2選🍁
最新の限定御朱印情報が届く!
御朱印メルマガを受け取ろう
利用開始をもって利用規約・プライバシーポリシーに
同意したものとみなします。
ホトカミで困ったこと、不具合のご報告はこちらから
お問い合わせ